幕間、隣の若い女性二人組が話していた。
「星さんのファンフリンに枕元で話してほしいわね」
「星の王子様」のような星智也にベット脇で話しかけられたら、到底眠られないだろうに。
作者のニロ・クルスは、1960年のキューバ生まれ、父がカストロ政権に反対したので、1969年一家はアメリカに亡命した。
この劇は、フロリダの劇団に委嘱によって書かれたもので、舞台は1929年、フロリダ州タンパのキューバ系の葉巻タバコ工場で起きる悲劇。
タバコを手で巻く作業を男女の工員がやっているが、そこには「レクター」と呼ばれる本を読む朗読者がいて小説を読み、単調な労働の助けとなっていた。
その工場主は気の良い男で、博打好きのサンティアゴ(斎藤志郎)、妻オフェリア(古坂るみ子)は、元カーニバルの女王で確り者。
レクターの習慣は、キューバから持ち込まれたようだが、その元を辿ると、西アフリカに多く存在するグリオになると思われる。
俗にアフリカの吟遊詩人とも言われるグリオは、多くは王や貴族に属し、彼らの故事来歴や偉人伝等を歌い語った。
それは、無文字文化で、すべての歴史を口承で伝えて来たアフリカの伝統であり、今日ではマリのサリフ・ケイタやセネガルのユッスー・ンドールと言ったポピュラー音楽の大スターもグリオの家系の出である。
彼らは、日本ではやらないが、アフリカの地元では、そうした偉い人を讃える歌・プレイズソングを唄い、プレゼントを貰うことがあるそうだ。
以前、萩原和也さんのレクチャーで聞いたが、マリのあるアーチストは、王様からジェット機をもらったそうだ。
だが、ジェット機をもらっても使うのは大変だろうね。
工場に新しく来たレクターのファンファリン(星智也)は、若く長身で声もよく、彼が朗読するトルストイの『アンナ・カレーニナ』は工場の女たちの心を奪ってしまう。
そこから、工場主の長女コンチータ(松岡依都美)は、夫で行員の一人のパロモ(大場泰正)がいながら、不倫を重ねてしまう。
また、次女のマレラ(栗田桃子)も、姉の情事を知り、叶わぬ恋と知りながらファンファリアに熱を上げてしまう。
まるで『アンナ・カレーニナ』の不倫と、その悲劇のように。
そして、サンティアゴの異母兄弟のチェチェ(高橋克明)は、すでに葉巻工場でも機械化が進み、レクターを解雇していることを知り、この問題を同時に解決しようとする。
さらに、彼が恋焦がれているマレラが、ファンファリンに入れあげているのを強く嫉妬ししていく
そして、一年一度のランタン祭りの夜、チェチェはファンファリンを銃殺してしまう。
ここには、葉巻産業における機械化の進行が象徴されているが、今やそれどころではなく、現在の「反タバコ思想」の蔓延を誰が想像しただろうか。
劇の前にも、「劇中にタバコを吸うシーンがあるが、完全に無害です」との告知がわざわざあったが、タバコに煩い人は多いのだろう。
だが、タバコに火がつき、煙も出しているのに全く匂わないので後で聞くと、電子タバコとのこと。
ランタン祭りの後、葉巻工場では、新たにレクターとして、パオロが小説を語りだし、工場は稼働を初めて行く。
私はタバコは20前後に少し吸っただけで、禁煙に異議はないが、酒、タバコ、そして色恋沙汰と有害だが、人生に不可欠なものは少なくない。
「タバコなぞ、コロンブスのアメリカ発見以前には欧州に存在しなかったのだから、文明に必要ない。ギリシャ、ローマ文化はタバコなしで出来た」と言われればそれまでだが。
この劇の良いところは、誰も善人が存在せず、すべての人物が罪を犯していることだ。
また、タバコ、酒、などは明らかに体に、色恋も時として有害なことはよくわかっている。だが、「わかっちゃいるけどやめられない」のが人間である。
こうした有害なものが排除される社会の進歩とは一体なんなのだと思ってしまう。
役者では、ファンファリンの星智也は、190センチの長身と低音で、見るもの総てを魅了した。
この劇は、後に「星智也は、この劇でスターになった」と言われるようになるほどの適役だったが、もっといやらしい南米風の色悪でも良かったと思う。
まさに「星の王子様」の誕生であり、内野聖陽なき後の文学座の新たなスターの誕生だろう。
マレラの栗田桃子は、父親譲りの入魂の演技が素晴らしく、20世紀末の蟹江敬三や石橋蓮司の芝居を思い出した。
キューバ音楽をブラジルと共に、世界で最も好きなポピュラー音楽の私としては、全体の音楽については言いたいこともあるが、それは書かない。
もし許されたなら、誰かの歌で、『アマポーラ』を主題歌として使って全体の雰囲気を作ってくれればと思ったが。
翻訳 鵜澤麻由子
演出 西川信廣
文学座アトリエ