明治学院大学で、芸術学部のイベントとして「シュウ・タグチと田口寧 作品上映と講演」が行われた。
シュウ・タグチは、戦前からニュースカメラマンとして活躍し、英語に堪能だったので、ニュース映画各社が統合され日本映画者が出来た時、ニューヨーク支社長になった。戦後は、自分のプロダクションのシュウ・タグチ・プロダクションズを作り、多数の記録映画を作った。彼の姪が黒柳徹子である。
田口寧は、長男で明治学院大学を出た後、フルブラト留学生でUCLAに行き、ハリウッドのパラマウントでも仕事をし、帰国後は51歳で急死した父の跡を継ぎ、453本の作品を作ったそうだ。
まず、シュウ・タグチが製作・演出をした日本の漁業の改善をテーマとする『漁る人々』が上映された。
これはカメラマン岡崎宏三の本でも詳しく書かれていたが、画面は岡崎なので素晴らしく、音楽も伊福部昭なので、大変ドラマチックな名作だった。
1959年の三菱自動車のPR映画『コルト・ファンタジア』は、監督が松尾一郎で、撮影は墨谷尚之、音楽伊部晴美で、コルトの車体にずっと車外の風景を写して繋げていくもの。試写では三菱から大クレームだったそうだが、これだけ斬新で実験的なのは無理もなかったと思う。
『巨大船を作る』は、1968年、三菱重工の発注で、20万トンのタンカーの造船の新しい工法、技術を描くもので、これも色彩が美しい。
音楽が誰か質問したが、田口さんも昔のことでお忘れだったが、フィルムセンター主任研究員の岡田さんが教えてくれたが、石井眞木とのこと。
シュウ・タグチの作品で一番有名なのは、シベリアの捕虜のことを題材とした『私はシベリアの捕虜だった』なので、反共主義者だと思い込んでいたが、『漁る人々』は、むしろ共産党のような反封建制作品で、本当は民主主義者なのだと思った。
私は、長年品川に住んでいたので、明治学院の前はバスで通っていたが、このキャンパスの雰囲気は非常にのんびりとしていて良いと感じた。
早稲田の雑踏のような騒々しさに比べると「これが本当の大学のキャンパスだ」と思えた。
シュウ・タグチは、戦前からニュースカメラマンとして活躍し、英語に堪能だったので、ニュース映画各社が統合され日本映画者が出来た時、ニューヨーク支社長になった。戦後は、自分のプロダクションのシュウ・タグチ・プロダクションズを作り、多数の記録映画を作った。彼の姪が黒柳徹子である。
田口寧は、長男で明治学院大学を出た後、フルブラト留学生でUCLAに行き、ハリウッドのパラマウントでも仕事をし、帰国後は51歳で急死した父の跡を継ぎ、453本の作品を作ったそうだ。
まず、シュウ・タグチが製作・演出をした日本の漁業の改善をテーマとする『漁る人々』が上映された。
これはカメラマン岡崎宏三の本でも詳しく書かれていたが、画面は岡崎なので素晴らしく、音楽も伊福部昭なので、大変ドラマチックな名作だった。
1959年の三菱自動車のPR映画『コルト・ファンタジア』は、監督が松尾一郎で、撮影は墨谷尚之、音楽伊部晴美で、コルトの車体にずっと車外の風景を写して繋げていくもの。試写では三菱から大クレームだったそうだが、これだけ斬新で実験的なのは無理もなかったと思う。
『巨大船を作る』は、1968年、三菱重工の発注で、20万トンのタンカーの造船の新しい工法、技術を描くもので、これも色彩が美しい。
音楽が誰か質問したが、田口さんも昔のことでお忘れだったが、フィルムセンター主任研究員の岡田さんが教えてくれたが、石井眞木とのこと。
シュウ・タグチの作品で一番有名なのは、シベリアの捕虜のことを題材とした『私はシベリアの捕虜だった』なので、反共主義者だと思い込んでいたが、『漁る人々』は、むしろ共産党のような反封建制作品で、本当は民主主義者なのだと思った。
私は、長年品川に住んでいたので、明治学院の前はバスで通っていたが、このキャンパスの雰囲気は非常にのんびりとしていて良いと感じた。
早稲田の雑踏のような騒々しさに比べると「これが本当の大学のキャンパスだ」と思えた。