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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『現認報告書』

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1967年10月8日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に反対するデモが羽田空港周辺で行われ、その中で京大生で中核派の山崎博昭が死んだ。
この時、私は家にいて、羽田には行かなかった。

その前夜に実は日比谷野外音楽堂で、佐藤首相の南ベトナム行きに反対する集会があった。
だが、そこで知らされたのは、法政大学での社青同解放派と中核派との対立がきわめて険悪で暴力的になり、「中核派ここに来ない」とのことで、
「こんなことじゃ明日は大したことにはならないな」と家にいたのである。

だが、夕方のテレビで見たのは学生の死亡と、デモ隊が一時的にせよ、角材等で機動隊を追い散らし、激しい戦いになったことの映像だった。
この角材とヘルメット姿での「武装」というのは、実は各派とも法政大学での衝突、「内ゲバ」の結果であり、当初から警察を目的にしたものではなかったのである。
いずれにせよ、当時の学生運動の盛り上がりの中では、いつか「武装」は起きただろうが、この時期になったのが、内ゲバだったことは大変皮肉だった。

この映画は、監督の小川紳介が完全に学生側に立ち、山崎博昭が警官の暴行によって殺されたことを主張している。
たしかに、この日、学生たちが角材で襲いかかってきた時、その攻撃を予め予期していなかった機動隊は大変に驚いたようだ。
だから、反撃した際には、機動隊員は学生を警棒で激しく殴り、橋の上から付き落とすなどをしている。
相当に殺気立っていたのである。
だから、警察の暴行によって死んだ可能性は高いが、それはまったく報じられず、真実は不明になった。

そして、事後の救援対策委員会の行動も捉えられている。
内容的には中途半端な感があるが、この頃から小川紳介と小川プロダクションは、明確に学生運動などの過激な反体制側に立ったのである。
その意味で、貴重な記録である。
川崎市民ミュージアム

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