俳優の斎藤晴彦が亡くなった、73歳。
彼を最初に見たのは、1975年に三鷹のどこかの空地でやった演劇センター・黒色テントの「喜劇昭和の世界」の『阿部定の犬』『キネマと探偵』だったと思う。
この『キネマと探偵』では、後にテレビのCFで彼が有名になる、クラシックの名曲に勝手に文句を付けて歌う芸をやったと思う。
それは、前後関係はよく憶えていないが、清水紘治と共に、悪役の二人が悪の楽しみを歌い上げる場面だったと思う。
この頃の演劇センターは役者も、スタッフも大変充実していて、次から次へと様々なアイディアを出していたと思う。
だが、多分作・演出の佐藤信の作者としての行き詰まりだろうか、後に『ブランキ殺し・上海の春』となる三部作目はなかなかできず、山元清多など、他の作者の作品の上演で時を稼いでいるように思えた。
演劇センターは、テントで地方公演もやっていて、女優高泉淳子は、高校生時代に仙台に来た公演を見て演劇のとりこになったそうだ。
そのくらい当時の演劇センターの芝居は面白かった。
テレビで、タモリの『今夜は最高』に出たこともあり、この時彼が、
「パフォーマンスっていうの大嫌い! わざとつまらなくやってるんだから」にはさすがと思った。
彼は、早稲田の演劇科を出て、劇団青俳に入り、その後発見の会から、単独で演劇センターに参加した。
1960年代後半からの新劇からアングラ・小劇場演劇への軌跡そのものだったが、彼の凄いところは、常に演じることに対して最大限奉仕していたことだろうと思う。
そのようなことは当然のことだが、今では結構忘れられていることだと思う。
大好きだった俳優のご冥福をお祈りしたい。
彼を最初に見たのは、1975年に三鷹のどこかの空地でやった演劇センター・黒色テントの「喜劇昭和の世界」の『阿部定の犬』『キネマと探偵』だったと思う。
この『キネマと探偵』では、後にテレビのCFで彼が有名になる、クラシックの名曲に勝手に文句を付けて歌う芸をやったと思う。
それは、前後関係はよく憶えていないが、清水紘治と共に、悪役の二人が悪の楽しみを歌い上げる場面だったと思う。
この頃の演劇センターは役者も、スタッフも大変充実していて、次から次へと様々なアイディアを出していたと思う。
だが、多分作・演出の佐藤信の作者としての行き詰まりだろうか、後に『ブランキ殺し・上海の春』となる三部作目はなかなかできず、山元清多など、他の作者の作品の上演で時を稼いでいるように思えた。
演劇センターは、テントで地方公演もやっていて、女優高泉淳子は、高校生時代に仙台に来た公演を見て演劇のとりこになったそうだ。
そのくらい当時の演劇センターの芝居は面白かった。
テレビで、タモリの『今夜は最高』に出たこともあり、この時彼が、
「パフォーマンスっていうの大嫌い! わざとつまらなくやってるんだから」にはさすがと思った。
彼は、早稲田の演劇科を出て、劇団青俳に入り、その後発見の会から、単独で演劇センターに参加した。
1960年代後半からの新劇からアングラ・小劇場演劇への軌跡そのものだったが、彼の凄いところは、常に演じることに対して最大限奉仕していたことだろうと思う。
そのようなことは当然のことだが、今では結構忘れられていることだと思う。
大好きだった俳優のご冥福をお祈りしたい。