「月丘夢路・井上梅次100年祭」の最後、新東宝、日活時代の助監督だった舛田利雄によるインタビュー。
1999年で、大監督の舛田が、井上の前では小さくなっているのが不思議。
戦後、学徒動員から大学に戻った井上は、高校の同級生内川清一郎からの話で、新東宝発足時の石田民三監督の『縁は異なもの』の助監督についたことから、新東宝の助監督になり、その働きぶりが大きく評価され、4年後に監督昇進を言われる。
だが、阿部豊、渡辺邦男、斎藤寅治郎の三大監督からクレームがつき、昇進が見送られる。
もちろん、監督が言ったのではなく、その助監督連中が反対したのだ。戦中も、黒澤明以外昇進した者はいなかったので、当然だが、仕方なく、宝塚映画で監督になり、その後新東宝で音楽映画等を撮った後、製作再開をした日活に移籍する。
舛田利雄の方が先に日活にいて、ある宴会で、舛田は、松竹出身の助監督連中から、
「井上って、どんな奴だ」と聞かれたそうだ。
日活では、浅丘ルリ子の『緑はるかに』をはじめ、石原裕次郎の『鷲と鷹』、『勝利者』、『嵐を呼ぶ男』などの大ヒットを飛ばす。
だが、1958年日活を離れる。その理由を舛田が聞くと井上は、はっきり答えた。
「完全に引き抜きです」
大映の川口松太郎、松竹の大谷、東映の坪井と言ったプロデューサーから話があったとのことで、あっさり日活を辞めて、各社で仕事をするが、ここでも最初が宝塚映画だったというのが面白い。
当時は、5社協定があったので、5社間で移籍することは難しかったのだ。
さらに、日活が次第に無国籍映画になり、銃で撃ち合う映画になったことも不満で、「私は1本もやっていない」とのこと。
娯楽性と芸術性が一緒になっていなくてはならないそうだ。
自慢話だが、そう不愉快ではなのは、人間性だろうか。
それにしても、最初の監督が、石田民三だったというのは、興味深い。
この人は、今は忘れられた監督だが、東宝京都にいて、森本薫脚本の、全員女優の『花ちりぬ』などの秀作を作っている。市川崑も、石田についていた人である。
国立映画アーカイブ