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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『赤とんぼ』は一日にしてならず 『幽韻』 山田耕筰 1920年から1920年

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山田耕筰をすごいと思ったのは、新国立劇場で行われた『黒船』のときだった。
昭和16年の太平洋戦争直前に上演された本格オペラで、幕末の開国から明治維新までの日本を描くもの。
日本のクラシック音楽史で言えば、日本で最初の本格的創作オペラだったそうだ。
この時、私は山田耕筰の曲が、日本語を完璧に音に乗せていることと彼が1910年代に留学したドイツ音楽だけではなく、ドビッシーなどの西洋近代音楽を幅広く取り入れている響きであることに非常に驚いた。


今回のコンサートの狙いも、解説の片山杜秀によれば、「山田耕筰と言うと、『この道』『ペチカ』『赤とんぼ』の山田ではなく、それ以前の西欧近代音楽そのものだった山田耕筰を紹介する」とのもので、大変意義の深いものだった。もっとも、聞いたことのない曲ばかりだった性だろう、客の半分くらいは寝ていたが。

具体的には、ピアノ曲のベルリン時代に書かれた1912年の『主題と変奏』から、『子供とおったん』、『青い焔』、『黎明の看経』、『哀史「荒城の月」を主題とする変奏曲』
さらにソプラノの入った寺崎悦子の詩による『澄月集』、イエーツの詩に曲をつけた『鷹の井戸』、百人一首に基づく『幽韻』、1920年の柳原白連作のっ詩に曲を付けた『夢の歌』『忘れては』まで。
それは、まさにドビッシー、リヒヤルト・シトラウス、スクリャービンら当時の最先端の曲の直接的な影響を受けたものだった。
『青い焔』に至っては、ほとんど武満徹のピアノ曲に聞こえた。
当時、1914年に日本で最初の大ヒット曲である松井須磨子の『復活唱歌・カチューシャ』が流行し、さらに少し時代がすすんでは浅草オペラの頃なのだから、こうした前衛音楽が普通の人に全く受けなかったのも当然だった。

その後、こうした10年代の試行錯誤を経て、山田は、日本語の「一語に一音を付ける」という工夫を編み出し、『この道』『ペチカ』『赤とんぼ』等の大ヒットを作りだし、日本音楽界の第一人者となるのである。

『赤とんぼ』ができたのは1928年、山田耕筰がベルリンから帰国してから15年後のことであった。

最後のアンコールでソプラノの松本美和子で、情緒たっぷりに『赤とんぼ』が歌われ、それはこの日の感情が干からびたコンサートの干天の慈雨のごときで、観客の涙を誘った。
会場の外は、ホテルニューオータニで、赤坂見附駅まで歩きながらラジコで大相撲の千秋楽を聞く。
稀背の里は勝って、優勝決定戦は、と一瞬思わせたが、白鵬が簡単に日馬富士を投げ飛ばして29回目の優勝を飾った。

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