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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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「日本コロンビア」がなくなった

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なくなったと言って、会社がなくなったわけではない。
「日本コロンビア」の大きな看板がなくなったのである。
川崎駅のすぐそば、多摩川に隣接してコロンビアのレコードの工場は明治時代からあり、戦時中も空襲に会わず、戦後もずっとあった。
戦時中に米軍の空襲で焼失した日本ビクターのレコードを、この工場でプレスしたということもあったようだ。

コロンビアは、大変な名門企業で、戦後は財界の代表のような男の藤山愛一郎が社長をしていたこともあり、
「池田勇人のような無教養な男が上司では嫌だ」として、池田大蔵大臣の下の大蔵次官を辞職した長沼弘毅が社長に就任したこともあった。
長沼弘毅は、日本で最初にイギリスのシャーロックホームズ協会の会員になった人であり、コナン・ドイルの翻訳もあるという文化人だった。

コロンビアが川崎にあったのは意味があり、レコードの製造には冷却水が必要だったからで、高熱にしてプレスしたSP盤を冷やすために水が必要だったのである。まるでおせんべの作り方みたいだが、岡田則夫さんからお聞きしたことがある。

昭和30年代は、テレビやステレオなどの家電製品も作っていたが、営業力の強い松下電器や東芝にはかなわず、家電部門からは撤退し、その後は日立グループにいたが、外国のファンドによる買収と売却で、完全に川崎工場はなくなった。


川崎の日本コロンビアと言えば、都市対抗野球では川崎市として神奈川代表で出たこともあったが、それも今は昔である。
現在、跡地は京浜急行と大和ハウスで、大型マンションとして再開発されている。
時代と共に産業と都市は変化してゆくのである。

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