国立映画アーカイブ小ホールで、同アーカイブと日本映画・テレビ録音協会の共催で、セミナーが行なわれた。
このセミナーは、今回が二回目とのことだが、非常に面白かった。
まず、『マダムと女房』が上映される。たぶん、3回目くらいだが、非常に音が良い。監督は五所平之助で、主演は田中絹代、渡辺篤、伊達里子などの当時の松竹で一番の俳優たちである。冒頭で、劇作家の渡辺が、道で絵を描いている横尾泥海男とやりとりする。横尾は、まさにデカイ男で、渡辺は小柄なので、ここはアメリカの喜劇のデカとチビのギャグで、城戸四郎は、こういう喜劇のルーティーンが好きだったそうだ。渡辺は、新作をすぐに書かなければならないが、家中の妻や娘の立てる音で集中できない。その時、隣家の洋館からジャズが聞えてきて、行くとモダンなマダムがいて歌っている。伊達は、洋装で、田中は日本髪を結った着物姿で、この対比も明快。マダムと踊って元気を取り戻し、渡辺は家の戻ってすぐに新作が書ける。最後、渡辺と田中は、『私の青空』を思い出して、幸福にひたる。
大変に上手くできているし、松竹的な日常的な描写と笑いがある。昭和初期の日本的なものと洋風文化の対比も鮮やかである。
2部は、この映画の録音を担当した土橋武夫(つちはしたけお)とお会いしたこともある、元日大芸術学部教授の八木信忠先生への、教え子である録音技師高木創さんの説明と質問。
土橋さんは、元は神戸の映画館のバイオリン弾きだった。だが、ある時、東京音楽学校(芸大)出の人が来て、初見で演奏しびっくりしたこと。洋画館は、次第にトーキーになり、自分たち楽士は不要になることを感じ、好きだった電気の知識を生かしてトーキーを研究する。彼は、元々ラジオ少年で、晩年まで発明狂だったとのこと。
弟の土橋晴夫が英語に堪能で、アメリカの雑誌でトーキーシステムの記事が載っていたのを訳してもらって自分でシステムを作り上げ、蒲田撮影所で採用されたのだそうだ。
それまでも、皆川という人が作ったミナ・トーキーや、マキノの映音システムなどがあったが、それらは完全版ではなかったので、本格的トーキーとしては、この松竹蒲田の『マダムと女房』が最初の成功作となったのだ。土橋は、傑作な人で、トーキーで職を失う弁士や楽士が、トーキー製作を止めさせようとヤクザに頼んだ。ヤクザが蒲田撮影所に来たときは、ライフルでヤクザを脅かして撃退したなど、相当に話を大きくする人だったとのこと。
また、彼は松竹の職員ではなかったので、朝日ニュースの録音もやっていて甲子園の記録もやったことなど。
他に、松竹には小津安二郎の友人だった茂原式トーキーや、新田式や石橋式のトーキーもあったのだそうだ。
当時、土橋さんは、ダビングやミキシングを知らずやっていなかったことについては、「本当なのか、全部現場でやるのは大変だ」との意見も交わされた。
私は、1933年の甲子園大会の記録は、1968年の市川崑の映画『青春』の一部にあることをお知らせした後、権利関係について質問した。
それは、カメラマン宮嶋義雄の本に「今で言えば、PCLのト-キーも権利侵害だな」とあったからだが、
「まあ、おおらかな時代だったのではないか」とにお答えだった。
思ったのは、新時代の技術というものは、必ずしも専門家から起きるものではなく、土橋氏のように少々変わった素人から始まることもあるのだと言うことだった。
映画のロケ地は田園調布だったそうで、実際にあった洋館の隣に平屋の木造家屋を建てて使用したのだと思う。
撮影のカメラは、3台で、同時に廻して、ショットを編集で切り替えたのだそうだ。