1959年に島倉千代子のヒット曲に併せて作られた映画、歌謡映画かと思うと、増田小夜という女性が書いた自伝が原作で、きわめて真面目な作品。
一応松竹で公開されたが、厳密に言えば歌舞伎座映画で、製作は加賀まり子の叔父さんの加賀二郎で、制作主任は後に大島渚の映画を作る中島正幸。
脚本は新藤兼人、監督は五所平之助の他、撮影は宮島義勇、美術は平田透徹、録音岡崎三千男、記録城田孝子と主要スタッフは旧東宝争議の馘首組である。
五所平之助は、本来共産党とは無縁の自由人だが、江戸っ子の弱い者の味方との心情から、戦後の東宝ストでは、終始組合側に立った。
「来なかったのは軍艦だけ」と言われた8月のスト解除の時は、スタジオから退去する組合員の先頭に立って撮影所を出た。
この時、小津安二郎は「そこまですることはないじゃないか」と言ったそうだが、弱い者の味方が五所平之助なのである。
この作品でも、信州の極貧の農家に生まれ、諏訪の置屋に女中に売られた女性高千穂ひづるの一生を暖かく見守って描いている。
置屋の女主人は村田知栄子で、ケチで意地悪な女をいつものとおりうまく演じている。
女中から半玉になると、ロンパリと呼ばれる軍需企業の親父・山形勲に水揚げされ、彼の3号にされる。
2号はバーの女の関千恵子であるが、本妻は出てこない。
昭和16年12月8日の真珠湾攻撃になり、戦時景気で山形は大儲けだが、高千穂は暇を持て余し、軍需工場で働くことにする。
工場では「妾が働くようじゃ日本もおしまいだ」と他の女工から陰口を聞かれるが、軍人の田村高広と良い仲になる。
雨の中で彼から傘を貸して貰った後、二人で飲んだ時、
「生まれて初めて他人から親切にされた」と高千穂は告白する。
戦争で田村は出征し、彼との仲がばれて諏訪で働けなくなり、高千穂は、かっての同輩水原真知子がいる千葉に弟と行く。
戦後、朝鮮人の殿山泰志の下で闇市で働き、弟を学校にやる。
彼女は小学校にも行かなかったので、字が読めないのであり、弟には学業に励ませたいのだ。
だが彼は腸結核になって前途を悲観し、姉の負担にならないようにと飛び降り自殺してしまう。
彼の遺骨を故郷諏訪の墓に埋め、そこで彼女は田村に再会するが、彼は結婚していて市議会議員になっている。
二号がいるのは選挙に関わると田村の妹の島倉千代子に言われ、彼と別れて田舎に引き込む。
選挙の終わったあと、田村が高千穂を訪ねて来るが、「私は一人で生きていく」と農村で明るく麦踏みの列に変わるところで終わり。
かつての日本の社会では、ともかく弱い者の味方というのが、最低限のルールだったが、今は弱虫たちは相手にせず、勝つ方につこうという時代だろう。
五所平之助の言葉に、「演出は台詞を言うまでが勝負で、そこまでをどう持っていくかが監督の腕だ」があるが、本当にロングの画面の使い方が非常に上手い。
チャンネルNECO