中野翠の書いたものなど大したものではないと思っている。『小津好み』などである。
さて、この本を読んで感じたのは、狭いはずの早稲田でも、結構体験は違っているんだなである。
彼女は、社研に入るが、驚くことに社研は、特定のセクトのものではなかったと初めて知った。
私は、早稲田の社研、社会科学研究会は、社青同解放派のものだと思っていたからだ。
また、学生会館の部屋は、文学研究会と共同で使っていて、そこに新崎智、呉智英がいて、知合いになったとのこと。
新崎は、かなり有名な人で、早稲田の学費・学館闘争の時、最後は12人の学生が処分されたが、11人は解放派などセクトの人間だった。
だが、新崎さんだけはセクトに属しておらず、彼は声が大きくて目立ったので処分されたのではないかという噂だった。
読んでいるといろいろと面白いことがあるが、「学生会館に映画研究会もいたのでは」と書いてあるのは完全な間違いである。
映画研究会の部室は、21号館・共通講堂の裏にあった「演劇長屋」(そこには劇団の部室と稽古場の他、探検部、中南米研究会なども入っていた)の先の路地を右に行った平屋の仕舞屋だったのだ。
それは、普通の家を大学が買ったのではないかと思われるもので、板敷きでその上に長机と椅子が置いてある奇妙な部室だった。
そこにドカドカと土足で上がるので、板は泥々で動くと砂が舞い上がると言った汚いものだった。
ここで、部員は映画についての議論をするのだが、本当に議論だけなので、肉体を酷使しなければと、私は手前の劇団に入りことにしたのだ。
同じように同学年だった金子裕君は、日活に行き、アルバイトの助監督として黛ジュンの映画をやって、あまりにひどいので辞めたとのことだった。
後に、彼は大和屋竺の門下になり、鈴木清順の脚本も書くようになる。