1960年代、テレビ界で「怒りの」と言えば、『アフタヌーン・ショー』の桂小金次だったが、音楽界では、『ミュージック・マガジン』の編集長・社長の中村とうようだった。
当時編集部にいた藤田正さんによれば、とうようさんは出社して怒りまくり、そのまま帰ってしまったこともあったとのこと。
だから、とうようさんは、ラジオ、テレビ等に出ていたが、長く続いたものはほとんどない。
どこかで喧嘩になってしまったのだろうと思う。
私も「怒りのとうよう」を目撃したのは、1988年9月の「ヒューマンライツ・ナウ・コンサート」だった。
当時、私はパシフィコ横浜でオープニングイベント担当だったので、アムネステイ・インターナショナル日本支部から優待券をもらって入った。
私と当時結婚していた妻、友人の下川博夫妻、さらに私の妻の弟夫妻の6人で東京ドームに行った。
因みにこの3夫婦は、全部離婚しているのは、時代と言うべきか。
途中、貴賓室で飲食をしたりなど、最高の一日だった。
そして、中村とうようさんと一緒に席で見た。
とうようさんにとっては、セネガルのユッスー・ンドールが少ししかやらなかったのが不満だったようだ。
また、多くのアーチストが出たので、バンド・チェンジに時間が掛かり、ご不満だった。
「こういう時間は、誰かが話して繋ぐものだが、日本ではまだだね」
「たけしなどが出て、繋げば良いのに」と言うと、
「たけしじゃ無理だよ」と軽く否定された。
日本のアーチストでは、竜童組で、これにはかなりがっかりだった。
そして、ブルース・スプリングスティーンになる。
すると、席に座っていた人たちが、一斉に立ってステージへと殺到した。
とうようさんは言った、
「みんな、ブルース・スプリングスティーンを見に来ただけのなのか!」
「とうようさんは、嫌いなんですか」
「俺も好きだよ」だった。