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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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横浜東亜劇場について

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横浜オデオン座については、次のように書かれている。

1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦の終戦後、同年9月30日に営業を終え、同年10月2日の総司令部設置以降の時期に進駐軍に接収され、「オクタゴンシアター」として運営される。1947年(昭和22年)1月1日、六崎は「横浜オデヲン座」を曙町に新設した[5]。 

曙町

賑町の元来の「オデヲン座」が「オクタゴンシアター」として接収されたため、六崎は、1947年(昭和22年)1月1日、近隣の中区曙町1-3に新たに「横浜オデヲン座」を開設し営業した。二階建てで、定員は592席であった。ロードショー形式の興行であったが、日活が洋画興行に進出し、また横浜東宝会館横浜ピカデリー劇場が相次いで新設され競争が激化した。こちらの横浜オデヲン座は1956年(昭和31年)3月7日新東宝の封切館「横浜新東宝映画劇場」に転身した。洋画館濫立のため、六崎が経営から手を引いた結果であった。六崎の後経営を引き継いだのは新東宝を経営していた大蔵貢で、彼が経営する大蔵映画が閉館まで経営に当たった。新東宝の破綻とほぼ同時期の1961年(昭和36年)に東急文化会館が運営する東急洋画チェーンに加盟して「横浜東急」に改称。「横浜東急」の名称だが経営は引き続き大蔵映画が当たっていた。その東急文化会館が1965年(昭和40年)3月に松竹と提携して「松竹東急チェーン(STチェーン)」を形成すると東急チェーンに加盟していた大蔵系各館は離脱して、成人映画・OPチェーンを形成。当初は「横浜東急」の名称のまま成人映画を上映し、同年5月に「横浜東亜映画劇場」に改称するが、この名称が旧オデヲン座が戦時中に使用していた名称であることを大蔵側が知っていたかどうかは定かではない。結局同館は1979年(昭和54年)4月8日をもって閉鎖[1]され、現在はマンションが立地している。「ぴあ」1979年4月号に掲載された映画館案内では、当時の支配人による閉館の挨拶が掲載されている[1]

この接収されたというのがくせ者だと思う。米軍に接収されたとすれば、横浜市と国は、見返りを与えたはずで、それが曙町の公有地だったのではないか。

そして、そこに六崎の後を引き継いだ大蔵貢は映画館を建て、新東宝、さらに東急系の映画館としたのではないか。私の知合いの老婆が優待券を使用したのも、東急チェーンの映画館なら理解できる。

          

さらに、今日、横浜シネマリンに行き、代表の八幡さんと話していたら、それを聞いた男の人が、「あそこのピンク映画は野毛に行ったよ」と言った。

今もある野毛の光音座のことである。


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