日活は、1954年に映画製作を再開する。戦時中に、内閣情報局と永田雅一の策略で、東京と京都の撮影所は、新会社の大映に統合されていたが、日活は戦時中は旧作の、戦後は西部劇の上映で会社を経営してきた。戦後の映画ブームの中で、「製作もすれば、もっと儲かるのでは・・・」と社長堀久作は考えて、調布に撮影所を作った。時代劇と文芸作品の二つが当時の路線で、文芸映画の一つが、この『警察日記』だった。原作は伊藤永之介、脚本は井手俊郎で、監督は久松静児である。久松は、なんでも撮る監督で、大映時代はサスペンスなどが多かったが、日活では文芸作品が多く、後に東京映画では森繁の『駅前シリーズ』を多作する。
舞台は福島の本宮で、そこの警察をもとに庶民の姿を描くが、根本は貧困による悲喜劇である。農家の娘岩崎加根子は、周旋屋杉村春子の口で、愛知の繊維工売り飛ばされそうなところを人情警官三国連太郎に助けられる。杉村は逮捕されるが、そこに愛知の労働基準監督署の多々良純がやってきて「愛知の我々が起訴送検する」と議論になる。森繁久弥は、棄て子の仁木てるみと男の赤ん坊を自家で育てる。「5人育てるのも6人育てるのも同じだ」と。地元出身の通産大臣稲葉義男の里帰りの大騒ぎも挿入され、ここはゴーゴリ―の『検察官』的だが、伊藤は元はプロレタリア作家だった。子を捨てた女の坪内美子が東京から戻ってくるが、そのころには二人の子は、町一番の富豪の旅館沢村貞子に無事に引き取られている。また、東京に行く坪内は、森繁とジープの中なら仁木らを見て涙ぐむ。本宮駅では、荷馬車夫だった伊藤雄之助が自衛隊入隊になり、それを帝国軍隊への入営と間違えている老人の東野英二郎は、万歳を三唱する。岩崎は、年上の豚屋に嫁入りするが、この豚屋は、被差別民の感じがする。要は、貧苦は、地域の中で解決されることで、菅首相が言ったまさに「共助」である。「自助、共助、公助、そして絆」の模範である。だが、これは原作は1952年、映画化は1954年のことだ。その後の、経済の高度成長からバブルを経て、小泉・竹中の新自由主義経済の時代の現在ではないのだ。かつてはあった地域と繋がりは現在は地方でも失われているに違いなく、都市には存在しない。その意味では、菅首相の「自助、共助、公助、そして絆」は、「2周遅れ」の政策であり、ひどい時代錯誤である。今日、絆と言って若者に聞いたら、「絆とはスマフォのこと・・・」だろう。宍戸錠は、警官の一人で、一番下の若者である。宍戸が亡くなった今日、ご健在なのは、岩崎と仁木だけだろう。横浜シネマリン
舞台は福島の本宮で、そこの警察をもとに庶民の姿を描くが、根本は貧困による悲喜劇である。農家の娘岩崎加根子は、周旋屋杉村春子の口で、愛知の繊維工売り飛ばされそうなところを人情警官三国連太郎に助けられる。杉村は逮捕されるが、そこに愛知の労働基準監督署の多々良純がやってきて「愛知の我々が起訴送検する」と議論になる。森繁久弥は、棄て子の仁木てるみと男の赤ん坊を自家で育てる。「5人育てるのも6人育てるのも同じだ」と。地元出身の通産大臣稲葉義男の里帰りの大騒ぎも挿入され、ここはゴーゴリ―の『検察官』的だが、伊藤は元はプロレタリア作家だった。子を捨てた女の坪内美子が東京から戻ってくるが、そのころには二人の子は、町一番の富豪の旅館沢村貞子に無事に引き取られている。また、東京に行く坪内は、森繁とジープの中なら仁木らを見て涙ぐむ。本宮駅では、荷馬車夫だった伊藤雄之助が自衛隊入隊になり、それを帝国軍隊への入営と間違えている老人の東野英二郎は、万歳を三唱する。岩崎は、年上の豚屋に嫁入りするが、この豚屋は、被差別民の感じがする。要は、貧苦は、地域の中で解決されることで、菅首相が言ったまさに「共助」である。「自助、共助、公助、そして絆」の模範である。だが、これは原作は1952年、映画化は1954年のことだ。その後の、経済の高度成長からバブルを経て、小泉・竹中の新自由主義経済の時代の現在ではないのだ。かつてはあった地域と繋がりは現在は地方でも失われているに違いなく、都市には存在しない。その意味では、菅首相の「自助、共助、公助、そして絆」は、「2周遅れ」の政策であり、ひどい時代錯誤である。今日、絆と言って若者に聞いたら、「絆とはスマフォのこと・・・」だろう。宍戸錠は、警官の一人で、一番下の若者である。宍戸が亡くなった今日、ご健在なのは、岩崎と仁木だけだろう。横浜シネマリン