私が生まれ育った東京大田区池上は、言うまでもなく本門寺の門前町で、同時に創価学会が非常に強い地域だった。
現在の会長池田大作氏が生まれたのも大田区大森であり、多くの幹部は大田区で教員だった人が多い。
この教員というのも、創価学会の特徴の一つで、初代の会長牧口常三郎、二代目の戸田城聖も、教員だったことがあるのだ。
しかも、この二人は、共に北陸の港町の出で、元は裕福な家だったが、その後没落して北海道に移住するという家の子だった。
これは、江戸から明治時代に代わり、日本の流通システムが変わり、かつての北前舩による日本海岸の交通が減ったからだろうと思う。
また、教員というのも、地域の子供たちと直接に触れあうもので、そのエリアの経済的貧困等を感じるものだったと思う。
彼らが、そうした地域の貧困層に対し、貧困から抜き出るために説いたのは、教育と信仰であるのも当然と言えば当然だろう。
出版事業を手掛けた戸田が出してヒットとなったのは、算数等の参考書で、これは当時では、上流階級に行く関門の一つだった中学への入学試験への本だった。
そして、牧口、戸田の二人は、当時の様々な宗教、修養団体を遍歴しているのも、大変に興味深いことである。
おそらく現在よりもはるかに多くの新興宗教団体があったようだが、それは現在と異なり、生活保護、国民健康保険、年金などの行政の福祉制度が不備だった戦前まで、自己と神に頼むしか、貧・病・災を逃れる方法はなかったからだ。
さらに、満州事変から太平洋戦争への戦争の時代の中で、死を逃れる方法としての信仰は大いに「能力」を発揮したに違いない。
例が出ているが、「日蓮宗の信仰があったので、全滅の戦場でたった一人生き残った」等の話が流布されて信者の拡大に役立ったのだ。
死んだ者は、神社のお札を身に着けていたので、敵弾に当たった等である。
まさに迷信というしかないが、生か死かの戦争の時代ではリアリティのある話だったと思う。
ただ、この本の欠点は、草創期の牧口と戸田の事情は詳しく描かれているが、昭和初期の拡大期の学会の理由は、あまり触れられていないことだろう。
さて、戦時中の学会の言動についても、非常に厳しく書かれていて、決して「平和の党」ではなく、積極的に戦争に協力した団体の一つであるとされている。
一庶民にすぎなかった牧口や戸田が、戦争体制を批判する視点を持っていなかったのは当然である。
それは、映画で見れば黒澤明が、映画『一番美しく』で、戦争を賛美したことと同じである。渋谷陽一は、同作品を反戦映画と言ったそうだが、本当にバカ者である。
戦後、学会は、軍隊的組織体制を作り、自己拡大と他団体攻撃に向かっていく。
そこには、竜年光、柏原ヤス、和泉覚、森田悌二等の名前が出てくる。
彼らは、みな後に議員になって活躍した連中である。
森田悌二など、どこかで聞いた名前だと思っていて調べると、鶴見区の市会議員だった。
学会は、当初は無所属で、次には公明政治連盟の名で、選挙に出て次々と当選していった。
このため、役所がやっていた「公明選挙運動」は、名が紛らわしいと、明正選挙と変えたくらいだ。
公明党・創価学会の地域の力は大変なもので、同じく庶民層に支持基盤を置いているはずの共産党とは比較にならない。
横浜市の三つの区で勤務した経験でも、生活保護等で助言・指導していた公明党の議員は多いが、共産党はほとんどいなかった。
そのために、自民党の議員、町内会長、商店会会長等の連中が一番嫌うのは、共産党でも民主党系の人間ではなく、公明党に繋がる連中だった。
「あいつらは、働かずに行政に頼って生きている」と。
それは実態を見れば半分は正しいということになる。
現在の会長池田大作氏が生まれたのも大田区大森であり、多くの幹部は大田区で教員だった人が多い。
この教員というのも、創価学会の特徴の一つで、初代の会長牧口常三郎、二代目の戸田城聖も、教員だったことがあるのだ。
しかも、この二人は、共に北陸の港町の出で、元は裕福な家だったが、その後没落して北海道に移住するという家の子だった。
これは、江戸から明治時代に代わり、日本の流通システムが変わり、かつての北前舩による日本海岸の交通が減ったからだろうと思う。
また、教員というのも、地域の子供たちと直接に触れあうもので、そのエリアの経済的貧困等を感じるものだったと思う。
彼らが、そうした地域の貧困層に対し、貧困から抜き出るために説いたのは、教育と信仰であるのも当然と言えば当然だろう。
出版事業を手掛けた戸田が出してヒットとなったのは、算数等の参考書で、これは当時では、上流階級に行く関門の一つだった中学への入学試験への本だった。
そして、牧口、戸田の二人は、当時の様々な宗教、修養団体を遍歴しているのも、大変に興味深いことである。
おそらく現在よりもはるかに多くの新興宗教団体があったようだが、それは現在と異なり、生活保護、国民健康保険、年金などの行政の福祉制度が不備だった戦前まで、自己と神に頼むしか、貧・病・災を逃れる方法はなかったからだ。
さらに、満州事変から太平洋戦争への戦争の時代の中で、死を逃れる方法としての信仰は大いに「能力」を発揮したに違いない。
例が出ているが、「日蓮宗の信仰があったので、全滅の戦場でたった一人生き残った」等の話が流布されて信者の拡大に役立ったのだ。
死んだ者は、神社のお札を身に着けていたので、敵弾に当たった等である。
まさに迷信というしかないが、生か死かの戦争の時代ではリアリティのある話だったと思う。
ただ、この本の欠点は、草創期の牧口と戸田の事情は詳しく描かれているが、昭和初期の拡大期の学会の理由は、あまり触れられていないことだろう。
さて、戦時中の学会の言動についても、非常に厳しく書かれていて、決して「平和の党」ではなく、積極的に戦争に協力した団体の一つであるとされている。
一庶民にすぎなかった牧口や戸田が、戦争体制を批判する視点を持っていなかったのは当然である。
それは、映画で見れば黒澤明が、映画『一番美しく』で、戦争を賛美したことと同じである。渋谷陽一は、同作品を反戦映画と言ったそうだが、本当にバカ者である。
戦後、学会は、軍隊的組織体制を作り、自己拡大と他団体攻撃に向かっていく。
そこには、竜年光、柏原ヤス、和泉覚、森田悌二等の名前が出てくる。
彼らは、みな後に議員になって活躍した連中である。
森田悌二など、どこかで聞いた名前だと思っていて調べると、鶴見区の市会議員だった。
学会は、当初は無所属で、次には公明政治連盟の名で、選挙に出て次々と当選していった。
このため、役所がやっていた「公明選挙運動」は、名が紛らわしいと、明正選挙と変えたくらいだ。
公明党・創価学会の地域の力は大変なもので、同じく庶民層に支持基盤を置いているはずの共産党とは比較にならない。
横浜市の三つの区で勤務した経験でも、生活保護等で助言・指導していた公明党の議員は多いが、共産党はほとんどいなかった。
そのために、自民党の議員、町内会長、商店会会長等の連中が一番嫌うのは、共産党でも民主党系の人間ではなく、公明党に繋がる連中だった。
「あいつらは、働かずに行政に頼って生きている」と。
それは実態を見れば半分は正しいということになる。