河瀬直美は、最初に見た『殯の森』が好きになれなかったので、この特集にも興味はないが、写真評論家西井一夫さんの死を描いたものだと言うので、見に行く。
西井さんの批評はよく読んでいて、最近見ないと思ったら、2001年11月に亡くなられていたのは、今回初めて知った。
彼が亡くなられた2001年11月は、私は脳こうそくで倒れて入院し、やっと退院してきたころなので、訃報を見逃していたのだろうと思う。
今回の上映の後の写真家百々俊二さんの話では、西井さんは『カメラ毎日』編集部にいて厳しい批評を展開し、日々論争に明け暮れて、ウィスキーを流し飲むと言った生活だったとのこと。
そして、勝新太郎のように、2001年夏に咽頭がんが見つかり、最後杉並のホスピスに入院し、「あと2か月を河瀬に撮ってもらいたい」と百々さんに電話を聞いて直接電話してきたとのこと。
映像は、主にハンディカムで、8ミリも挿入されている。
膨大な映像を撮ったのだそうだが、西井の姿は、ほとんど痛々しいの一語に尽きる。
そして、今回の作品とトークを聞いて、河瀬監督は非常に思い込みの強い人だなと改めて思った。
こうしたタイプに、故劇作家の岸田理生がいて、私は非常に苦手だった。
ただ、生理的な岸田と異なり、河瀬は元はスポーツ選手で、健康的なのは良い。
今度の2020東京五輪の記録映画の監督をすることになったのだそうだ。
2020東京五輪には賛成できないので、誰が監督しても興味はないが、1964年の市川崑監督のような名作にはならないだろうと思う。
それは、監督としての優劣ではなく、時代の差である。
1964年は、日本が戦時中から戦後にかけて、文化映画、記録映画、ニュース映画が最高潮に達していた時で、それらのスタッフが総結集した結果があの名作なのだ。
山本晋也も岩波映画にいて、陸上競技班で撮影を担当したそうだ。
その後、文化映画、ニュース映画が衰退する中で、山本もピンク映画に行く。
ピンク映画というと、1962年に倒産した新東宝の人によって作られたと言われているが、それは半分で、ニュース映画、文化映画からの転向組も非常に多かったのである。
私の席の近くには、河瀬の類縁らしい男の子がいて煩くて不快。
国立映画アーカイブ
西井さんの批評はよく読んでいて、最近見ないと思ったら、2001年11月に亡くなられていたのは、今回初めて知った。
彼が亡くなられた2001年11月は、私は脳こうそくで倒れて入院し、やっと退院してきたころなので、訃報を見逃していたのだろうと思う。
今回の上映の後の写真家百々俊二さんの話では、西井さんは『カメラ毎日』編集部にいて厳しい批評を展開し、日々論争に明け暮れて、ウィスキーを流し飲むと言った生活だったとのこと。
そして、勝新太郎のように、2001年夏に咽頭がんが見つかり、最後杉並のホスピスに入院し、「あと2か月を河瀬に撮ってもらいたい」と百々さんに電話を聞いて直接電話してきたとのこと。
映像は、主にハンディカムで、8ミリも挿入されている。
膨大な映像を撮ったのだそうだが、西井の姿は、ほとんど痛々しいの一語に尽きる。
そして、今回の作品とトークを聞いて、河瀬監督は非常に思い込みの強い人だなと改めて思った。
こうしたタイプに、故劇作家の岸田理生がいて、私は非常に苦手だった。
ただ、生理的な岸田と異なり、河瀬は元はスポーツ選手で、健康的なのは良い。
今度の2020東京五輪の記録映画の監督をすることになったのだそうだ。
2020東京五輪には賛成できないので、誰が監督しても興味はないが、1964年の市川崑監督のような名作にはならないだろうと思う。
それは、監督としての優劣ではなく、時代の差である。
1964年は、日本が戦時中から戦後にかけて、文化映画、記録映画、ニュース映画が最高潮に達していた時で、それらのスタッフが総結集した結果があの名作なのだ。
山本晋也も岩波映画にいて、陸上競技班で撮影を担当したそうだ。
その後、文化映画、ニュース映画が衰退する中で、山本もピンク映画に行く。
ピンク映画というと、1962年に倒産した新東宝の人によって作られたと言われているが、それは半分で、ニュース映画、文化映画からの転向組も非常に多かったのである。
私の席の近くには、河瀬の類縁らしい男の子がいて煩くて不快。
国立映画アーカイブ