木下恵介が、1998年12月30日に亡くなったとき、12月31日の『NHK紅白歌合戦』の最後で、久保純子アナウンサーが、
「キノケイ監督が亡くなられた」と言った。その時、私は思った「クボジュンは、木下恵介を知らないのだな」と。以前、横浜映画祭代表の鈴村たけしさんも、「木下恵介をみんなが忘れているのはおかしい」と言っていたがその通りだと思う。
その通りで、今や世界の大名作の黒澤明の『七人の侍』だが、これが1954年に公開されたとき、『七人の侍』を抑えてキネマ旬報1位になったのは、『二四の瞳』と『女の園』の木下作品が、1、2位だった。
私は、『二十四の瞳』はともかくとして、『女の園』は本当に厳しい映画であり、この女学生同士が互いに傷つけあう物語は、大島渚の『日本の夜と霧』にも大きな影響を与えていると思う。
つまり、松竹映画の歴史を見れば、小津安二郎、木下恵介、大島渚というのがその中心的精神の歴史だと思う。
木下恵介は、1944年に『陸軍』を作るが、陸軍情報局からその作風を強く批判され、自信を失って松竹を退社し、浜松の実家に戻る。
父は、奥に疎開していて、東京での空襲のショックで脳梗塞になって歩けない母(田中裕子)をその父の疎開場所まで、リヤカーで連れてゆく木下正吉(加瀬亮)と兄を描くものである。
母は脳梗塞で動けなくなっているが、今では脳梗塞で倒れてもすぐにリハビリを始めて動かした方が早く回復するとされているが、当時は動かさない方が良いとされていたのだ。
リヤカーは2台あり、1台は木下正吉と兄が、家財道具を積んだ車は、便利屋の浜田岳が引っ張ってゆく。
この男が剽軽で、無知だが利に敏くすべてに実利的な庶民で、木下映画に出てくる日本人の典型の一人だと思える。
場所がどこかよくわからないが、アニメで説明しろとは言わないが、どこかで駅の看板などで、行き先を示しておいた方が、この路程の大変さが分かったと思う。
途中の旅館でトロッコに乗り換えるまでの間、田舎の旅館に泊まることになり、列車が出ないので2拍することになる。
手持無沙汰で木下が河原に行ったとき、便利屋も来て、彼は映画『陸軍』のラストシーンには感動したという。
そして『陸軍』のラストシーンになるが、たしかにこのシークエンスは今見ても凄いと思う。
なぜ陸軍情報局が「欧米的」と批判したのかは、この場面で異常に繰り返される移動撮影で、これは欧米の車社会の優越性を見せつけるものだからろうか。
日本陸軍の歩兵は、ともかく歩くことで、『麦と兵隊』ではないが、軍隊とはともかく歩くことだった。
そして、苦労の末に木下正吉は父が疎開している村にたどり着き、家族と再会し、便利屋の言葉にも勇気づけられて映画に戻る決意をする。
戦後の作品が流されるが、『女の園』がないのは不満に思う。
衛星劇場