かって大島渚は、「戦後の日本映画は、被害者としてしか日本人を描いて来なかった」と彼以前の日本映画を批判した。
それが正しいかどうかは別として、この大評判のアニメを見て最初に思い出したのは、木下恵介の『二十四の瞳』だった。
そこでは高峰秀子の大石先生以下の小豆島の人々は、全員戦争の被害者である。
ここでも同じ瀬戸内海の対岸の広島市と呉市の人々は全員戦争の被害者であり、違うのはのん(元・能年玲奈)のスケッチをスパイ行為と摘発しようとする頓珍漢な憲兵くらいである。
そして、あの能天気なのんが主人公なのだから、極めて善意そのものの世界が美しく展開される。
勿論、その中で、米軍の爆弾で、のんは自分の姪っ子を失い、自分も大事な右腕の肘から先を失ってしまう。
ここにあるのは被害者というよりも、ほとんど無智蒙昧で、最下層の庶民の戦争への知識も考えは、こんなものだったのだろうかとは思えるが。
あるいは、作者たちは、こうした無智蒙昧が戦争を生んだのだと言っているのだろうかもしれないが。
最後、天皇の玉音放送をが聞いた時、「なんで最後の一人まで戦わないの!」とのんが激怒するのは、逆に庶民の過激さが現れていて面白かったが。
だが、戦後伊丹万作が、「だまされたこと自体に罪がある」と言ったことを忘れてはならないと私はあえて言いたいと思う。
このように世界と社会への無知はやはりおかしなことであり、ここで泣くのは良いことだとは思えないのである。
川崎109