世界最初の柔道映画は、言うまでもなく黒澤明の『姿三四郎』である。1942年の公開時に増村保造は5回見たとのことで、黒澤映画で最高との説もある。
確かに面白い映画だが、最近は富田常雄の原作を読んだ人も少ないだろうが、原作は、かなり「とんでも小説」みたいな筋書で、非常に驚く。
そこを黒澤は、原作にある異母姉妹の話などの因果もの的な部分を全部切り、柔道アクション映画にしている。
彼の『蝦蟇の油』には、原作の映画化権取得のいきさつが書かれているが、かなり不思議なものである。それは、東宝の他、大映も来たが、原作者富田常雄の奥さんが黒澤の名を知っていて、それが決め手になったというのだ。
富田常雄の奥さんは、映画マニアだったのだろうか、なぜなら黒澤は、ただの東宝の助監督で無名だったからだ。
それよりも私は、黒澤明の父親黒澤勇氏は、日本体育会の元理事で、柔道なども会の事業としてやっていたので、富田常雄の父富田常次郎とは知り合いだったからだと私は思うのである。
富田常次郎氏は、講道館の有段者で渡米して柔道の普及に当たった後、帰国してからは東京でも柔道イベントを数多くやっていた。
その一つとして、黒澤勇氏の日本体育会も協同していたはずで、
「あの黒澤勇氏の息子だから彼に映画化権をあげよう」とされたのだと私は想像する。
では、なぜ黒澤明は、父が関係していたことを隠しているのか。
それは、黒澤勇氏は、大正3年の大正博覧会への日本体育会の出展の赤字の責任を取らされ首になってしまう。
そして、それまで黒澤の兄や姉が私立の森村学園に通っているなど裕福だった黒澤家はいきなり貧乏になってしまったからである。
黒澤明は、この父黒澤勇氏をよく思っていなかったからだと思う。
その証拠に、『蝦蟇の油』では、黒澤勇氏の明治期の日本体育会での活躍は自慢げに書かれているが、大正時代以後については一切書かれていないからである。
自分の家を貧窮に追い込んだ父親をよく思わなかったのは、息子としては当然だと思う。