2015年の4月、私は次のように書いた。
今週は日曜日は、統一地方選の投票日だが、全国で県会議員の無投票当選が増えたことが伝えられている。
当然である。
以前、横浜市内のある区にいた時、Mさんという県会議長もやられることになる県会議員がおられた。
この方は、ほぼ毎日昼前に区役所に来られて、いろいろと仕事をこなした後に、午後神奈川県庁に行かれるのである。
われわれ区役所の職員は、Mさんのことを「5人目の市会議員」と呼んでいた。
横浜市のような政令指定都市では、県会議員の仕事はほとんどない。
1970年代は、「県会議員の仕事は、交通事故のもらい下げ、もみ消ししかない」と冗談に言われた。
だが、今や情報公開やコンプライアンスで、議員の力など県に及ぶ時代ではないないので、本当に県会議員の仕事はないと思う。
もともと道府県は、明治時代に全国の市町村への国家意思の伝達のための機関として設置されたのである。
電話もろくにない時代、政府の指示・命令を全国に伝えるための媒介機関として作られたのだから、情報が発達した現在ではほとんど不要な機関なのである。
大阪の橋下徹が、府知事を辞めて、わざわざ市長になったのも、あまりにも府知事の業務が「閑職」で形式的だからだと思う。
アメリカで、昔クリント・イーストウッドが市長になったことがある。
アメリカの場合市長と議会の関係はいろいろな制度があるが、この市長は多分儀礼的な業務を務める市長職だと思う。
誤解されると困るが、この市長はある意味で日本の天皇のような存在で、行政には口を挟まず、市を代表する行事を執行すると言った職務を務めるのだ。
石原慎太郎も、余計なことを言わなければ、東京と言う大都市を代表する人間として、儀礼的に見れば東京都知事にふさわしいととも言える。
その意味では、私は道府県を廃止して道州制にすることに賛成である。
今や、道府県制度を根本的に考えなおす時期が来ていることは、この無投票当選が明らかにしていると思う。
このように、道府県というものは、本来市町村を指揮命令する団体として明治期に作られたもので、その本質は戦後の地方自治法下でも変わっていない。
だから、かつての美濃部都政時代のように、保守・革新の対立時代ならともかく、元々地方自治では政治的対立は大きくないのだから、象徴的存在で良いのである。
石原慎太郎のように、銀行税、新銀行東京、さらに尖閣の国有化など余計なことをするのは、彼の個性で仕方ないが、本来無意味なことはしなくてよいのである。
今回の都知事選挙でも、有力3候補の政策に大きな差はないように見える。
では、どこの違いで選挙は行われるのだろうか。
小池百合子は、メディア戦略などは完璧だが、やはり作為が目に付くと言うべきだろう。この都知事選の次はどうするのだろうかと思う。
増田寛也は、岩手県などの地方なら適任だろうが、東京都知事というタマではあるまい。
事実、自民党の候補は桜井だったのだから。桜井も官僚なので、地名度は全くないが、桜井翔の父親だからというのだから、あまりだが。
辞退されたのも当然だが、この次の参議院議員選挙比例区への約束があったのではないかと思う。
さて、「究極の後出しジャンケン」の鳥越俊太郎だが、以前から民進党からの打診もあったが、高齢等の理由で辞退してきたようだ。
今回は、参議院選挙改憲派の勝利と、長野選挙区の杉尾と、鹿児島県知事での三反園の当選を見て出馬することにしたのだろうと思う。
テレビで彼の記者会見を見たが、非常に正直で好印象だったと思う。
日頃、政府よりの立場の田崎史郎も、「非常に良かった」と言っていた。
政策について聞かれ、「まだ分かりません」と言ったのも、田崎は
「正直で、普通こうは言えませんよ」と言っていた。
宇都宮健児が辞退したことについては、賛否あるようだが、普通に考えれば鳥越に有利になる。
参議院選挙の比例区得票では、与党と野党の得票数は、自公が少し上だが、次点以下の田中康夫と三宅洋次の票の半分以上は、反自民だろう。
このままいけば、鳥越の優勢が続き、彼の資質には特に問題はないので、都知事として適任だと思う。