以前、佐村河内守氏のゴーストライター問題がマスコミで騒然となった時、私は以下のように書いた。
2014年02月06日 | 音楽佐村河内守なる全聾の作曲家の曲が、実はすべて別の作曲家の手になるもので、全聾というのも違うということが大騒ぎになっている。名前は、見たことがあったが、曲は聞いたことがなかったので、you tubeで聞いてみると、随分大げさな曲だなと思う。ストラビンスキー『火の鳥』やドビッシーの『ファンファーレ』,マーラーなどによく似た調べが繰りかされ、次第に盛り上げられる。それも、「全聾の作曲家」が、ベートーヴェンのように、あたかもその苦しみの中から絞り出したような曲想である。結構、イメージどおりの役を演じさせられる曲を作っていた上では、このゴースト・ライターの新垣隆という人はかなりの腕前だろう。しかし、このCDが10万枚以上売れたと聞くと、「いったい日本のクラシック・ファンは何をきいていたの? 」と言いたくなる。もちろん、10万枚以上売れたということは、通常のクラシック・ファン以外にも売れたはずで、その理由が佐村河内守氏の全聾物語であることは間違いない。
昔、音楽評論家の中村とうようさんが、次のような話を書いていた。彼は、1950年代からブルースなどアメリカの黒人音楽を日本に積極的に紹介していたが、ある時大阪労音が、黒人の歌手オデッタらを招き、中村とうようさんは、司会役で全国各地を廻った。1960年代中頃のことで、都会はともかく地方に行くと、ジャズ、ブルース、ゴスペル等に知識のない観客のために、冒頭の司会でとうようさんは、アメリカの黒人の歴史、特に抑圧されてきたことを語った。すると観客は大変感動する。次の場所では、もっと悲惨な話な黒人たちの話をすると、お客さんはもっと感動する。その時、とうようさんは、「いったいお客さんは音楽に感動しているのか、それとも俺の話に感動しているのか」わからなくなったそうだ。
同様のことは、常々演出家の鈴木忠志も言っている。1960年代までの日本の演劇、新劇は、テーマ主義で、一つの劇の向こうにある主題に対して観客を感動させ、あるメッセージを伝えようとようとするものだった。だから、そこでは重要なのは、作品のテーマであって、個々の役者の演技の質や意味などは問題にされなかった。それで演劇を見た、感動したと言えるのだろうか。演劇は、演劇のみ、鈴木流に言えば、役者の演技によってのみ評価されるべきで、我が国の歌舞伎は、そのような「役者を見せる演劇」だったからこそ数百年間存続してきたと。私は、鈴木忠志のような狭量な人間ではないので、芸術、文化は、それを享受する者は、どこに感動しても享受者の自由だと思っている。メッセージや悲劇物語、感動秘話に感動しても享受者の勝手というものである。だが、「AKB48に騒いでいる連中なんて、ルックスだけで音楽性を聞いていないではないか」とアイドル・ファンを馬鹿にしていたクラシック・ファンも、所詮は大して変わりはないことがよくわかったのは、勿論良いことである。
映画『FAKE』を見ようと、シネマジャック&ベティに行くと狭いロビーが一杯で、支配人の梶原さんに聞くと、「昨日が初日でしたから」
何とか席を確保するが、場内はほぼ満員。
脚本・監督は森達也で、ほとんど彼一人の佐村河内氏と妻へのインタビューで終始する。
途中、フジテレビや外国人ジャーナリストによる応答があり、特に後者のシーンでは英語による説明もあり、何度も同様の内容が繰り返されるので、少々だれる。
足に隣の女性の足が触るので、「あれっ」と思うとじっくりと眠られている。
題名のフェイクとは、にせもののことで、ジャズでは原曲を崩して歌うことを言い、モダンジャズ直前の白人ジャズのメロディの崩し方などを言ったものだ。
ここでは、かなり佐村河内氏の作曲方法をニセだと言っているように見える。
彼は、曲のメロディを自分では作っていず、全体の構成や主題、その感じを文字で書き、指示していたのだから、当時彼が作曲したと言われていた曲は、言うまでもなく新垣隆氏の作曲である。
なぜなら、現行の著作権法によれば、どの著作物でも同じだが、著作権者は著作物を書いた人であり、アイディア等を考えた人ではないからである。
佐村河内氏は、法的に言えば、企画・原案者というべき人であるが、それは彼と新垣氏の間の問題であり、新垣氏は権利を放棄しているとのことなので、佐村河内氏となる。
最後、彼は新たに購入したシンセサイザーで、森監督の要請に応じて新曲を作り上げる。
これがフェイクなのか、どうかは見た人が決めることだと思う。