一昨日に見た『ちんじゃらじゃら物語』も松竹京都撮影所の作品だったが、この撮影所ほど数奇な運命をたどった撮影所もないだろう。
戦前から、松竹の撮影所として下加茂にあり、関東大震災で松竹蒲田撮影所が潰れると、野村芳亭一派が蒲田から来て現代劇作品も作ったが、蒲田が復興するとまた時代劇の撮影所に戻った。
この時期のサイレント末期の時代劇では、林長二郎(長谷川一夫)が大人気で、松竹映画を興行的に支えた。
だが、次第に城戸四郎の指揮の下で、蒲田調そして大船調が日本映画界で高い評価を得るようになると、京都は二流撮影所とされるようになった。
戦後も大船に対しては「格下」で、テコ入れ策として木下恵介がきて『四谷怪談』を、渋谷実がきて『青銅の基督』を撮ったりした。
1950年代の最大のスターが、伴淳三郎と高田浩吉だったというのだから押して知るべしだが。
そして1964年に閉鎖に追い込まれ、篠田正浩監督の清河八郎のことを描いた『暗殺』が最後の正式作品で、篠田は、
「これが最後だ、とのことで京都のスタッフは最大限のことをしてくれた」と言っている。
丹波哲郎の清河八郎を殺すため、講武所で彼に負けた木村功の佐々木只三郎が、清河について多くの人間の証言を集めて、彼の弱点を見つけて殺す話である。
先日亡くなられた蜷川幸雄が、勤王の志士の一人として出てくるなど、非常に面白い映画である。他に、岡田英治、早川保、竹脇無我、清水元、佐田啓二、そして唯一の意味ある女優は岩下志麻。彼女は京都をよく知らず、篠田がいろいろと案内したことが結婚へとつながったのだそうだ。
スタジオ閉鎖後は、主なスタッフは大船に移籍したが、森崎東や貞永方久、さらに酒井欣也などがそうである。
また、閉鎖された後は、京都映画になり、主に「必殺シリーズ」テレビ映画で生きてきたが、大船の清純派女優だった尾崎奈々は、京都のカメラマンの石原興と結婚して女優引退したが、賢明な生き方というべきだろう。
大船では、野村芳太郎そして山田洋次のみがヒット続けていたが、それも渥美清の死で終焉を迎える。
鎌倉シネマワールドを作ったが(私は行ったことがなかったが)、非常にチャチナものだったそうで、失敗して閉鎖され鎌倉女子大に売却される。
一方、京都撮影所は、しぶとく生き延び、今や松竹系の唯一の撮影所になっているのは、関西人のしぶとさというべきだろうか。
まことに世の中は不思議である。