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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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「東京タワー、おっかさん」

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『東京だョおっ母さん』は、島倉千代子のヒット曲だが、ちょうどそのころできたのが東京タワーである。

         

 

この東京タワーのすぐ脇にあったのが、東京12チャンネル(今のテレビ東京)で、私は大学生の時、運動部や美術部でアルバイトをしていたことがある。

東京12チャンネルは、首都圏最後のVHF局で、この後はUHF局になるとのことで、かなり注目され、全国から放送関係者が入社した。

だが、当時は科学技術館などを運営している日立系の財団が基だったので、経営が不安定で、私が行っている時も、よくストライキをやっていた。日立系だったので、スポンサーがやたらに日立が多かったものである。

美術部では、スタジオのセットの設営の手伝いをしたが、ほとんどがチャチなセットばかりで、立派なのは、唯一『田宮二郎ショー』くらいだった。

彼は大映を辞めた後の、不遇な時のもので、彼が歌い踊るショーで、俳優座大道具出身の美術部の親分は、

「本当にいい男で、歌も踊りも上手いのになぜ活躍できないのかねえ・・・」と嘆いていたが本当で、今彼の映画を見ても本当にカッコいい。

市川雷蔵はすぐに亡くなってしまうが、もし田宮二郎が大映にいれば、それなりの会社の支えになったであろうと思うと非常に残念に思う。

 

当時、東京12チャンネルには人気番組が二つしかなく、「全日本女子プロレス」と「ローラー・ゲーム」だった。

女子プロレスはともかく、「ローラー・ゲーム」は、かなりでっち上げのような企画で、ローラー・ゲーム解説者として宮本さんとい人がいたが、実は解説者でもなんでもなく、彼は12チャンネルのアナウンサーの一人だったのである。

まあテレビなんて、ほとんどがでっち上げみたいなものだから、それもいいだろう。

その後、日本経済新聞社が資本を取得し、テレビ大阪等と全国ネッワークも作り、今や旅と食い物番組などの独自路線で経営改善しているのはすごい。

以前、脳こうそくで長期に入院している時、患者が見ているテレビ番組は、もちろんNHKだが、次は日本テレビで、その次がテレビ東京なのであったのには、本当に驚いたものである。

私が運動部に行った日は、12チャンネル史上最初のプロ野球中継をやった時で、ヤクルト・巨人戦で、私は「サブ」というスタジオで、S・B・Oを担当したのである。

S・B・Oとは、画面の端に出るストライク、ボール、アウトのカウントのことで、小さなモニターを見ながらS・B・Oのボタンを押すのである。

時には、判定のよくわからない審判もいて、フライングして勝手にボタンを押してしまい間違えることもある。

その時は、「間違えました」と言って、画面を消してもらい入れなおすのである。

野球のテレビ中継を見ていると、いつもS・B・O(今はB・S・Oだが)、のことを思ってしまう。

 


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