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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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あきらが死んだ

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あきらが死んだと書くと、小林旭が死んだのか、と早とちりする人があるかもしれないが、私の先輩の無名の俳優、山本亮のことである。

私が1966年9月に、早稲田の劇団演劇研究会に入ると1年上にいて、輝く役者の一人だった。

生まれはどこかは知らないが、神戸の灘高校を出て早稲田の商学部に入り、そのまま劇団に入っていた。

                

 

父親は、記者ではないが朝日新聞社で、茅ケ崎に住んでいたので、裕福なお家だったはずだ。

彼がすごいのは、2年生の時に、それまでに大学の単位は、4単位しか取っていなかったと言っていて、それは本当だった。

実は、私も、1年生の時は、8単位しか取っていなかったので、彼ら不良学生からは、

「さすが・・・」と褒められたものである。

彼は役者だったが、大変に芝居が好きで、内外の戯曲もよく読んでいて、ウェスカーや、矢代静一、田中千佳夫は、彼に教えてもらった。

結局4年大学にいて、その後は文学座の研究生になった。

1973年のある日、家でNHKの朝ドラを見ていると、彼が家で炬燵で寝っ転がっている姿を見た。高橋洋子主演の『北の家族』である。

その後、彼とは大学の時に一緒に芝居をやっていた連中と劇団を作ったとき、主演俳優として大変に活躍してもらった。

また、文学座研究生時代の繋がりなどで、多くの若手劇団の芝居にも出ていて、二,三度私も券を買わされて見に行ったこともある。

だが、私たちの劇団が3年で潰れたように、彼も俳優としてはものにならず、そのころから好きだったレタリングやデザインの仕事をやり始めた。

最近は、雑誌の割り付けやレタリングをしていたようだが、いつも締め切りで忙しいとなかな会う機会がなかった。

家では、姉や妹、そして母親と住んでいたようで、生活には困らなかったはずだが、昨年の11月に亡くなったと妹さんから手紙が来た。

いつもは、凝ったデザインの年賀状が来るのに、今年は来ないので変だなと思っていたところである。

彼には、私は恩義があるので、ここに書く次第である。

それは、小津安二郎の『東京物語』の、「次男の妻原節子には男がいるのではないか」と彼から示唆されたことである。

昨年出した『小津安二郎の悔恨』は、そこから始まったものである。

あきらよ、天国で良い芝居をしてください。

 

 

 

 

 


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