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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『ジャズ・昭和史』 油井正一

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高校生時代、『スイング・ジャーナル』などを読んでいて、一番好きだったのが、油井正一さんの批評だった。
理由は簡単で、言っておられることが、自分の言葉、自分の考えから出来ているように思えたからだ。
この本を読んで、その理由がよくわかった。

油井さんは、戦前の昭和初期の学生時代からジャズが好きで、レコード(もちろんSP盤)を買っていて、ほとんど情報のない時代だったので、手探りでジャズを聴いていた。
戦前は、ジャズが実は黒人の音楽だという意識は、日本には全くなく、戦後のことだと書かれている。
今では、ジャズがアフリカから連れてこられた黒人の音楽が基であることは、常識のようになっているが、それは1960年代の、ファンキー・ジャズの日本での大流行以降のことだそうだ。
1960年のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの『サンジェルマンデュプレのジャズ・メッセンジャーズ』の中の「モーニン」の大ヒットと、よく1961年正月の彼らの来日以降のことなのだそうだ。
この時の来日公演は、大イベントで、テレビでも放送され、日頃はハワイアンをやっていた私の兄も、テープレコーダーに録音したくらいだ。
一つには、1960年は、言うまでもなく「60年安保」の年で、そうした反体制的なムードが日本の若者全体にあったことが原因の一つだったと思う。
インテリ、知識人はすべてモダンジャズを聴くべき、という意識があり、文学者で言っても、倉橋由美子から井上光晴まで、およそ音楽とは無縁の作家までジャズ喫茶に行っていたのだから、今考えれば大いに笑える。

戦前から戦後のジャズの世界、主に油井さんも中心メンバーだった「ホットクラブ」などのエピソードが多いが、非常に面白い。
私が、『スイング・ジャーナル』で読んでいた評論家の方々が出てくるが、中でも河野隆次さんのエピソードが面白い。
河野さんは、1960年代中頃はデキシーランド・ジャズオンリーだったが、元はビクターのディレクターで、様々に工夫して日本版のジャズを作ったのは、初めて聞いた。
その他、来日した有名バンドが意外にも券が売れず苦労した話、今では名盤とされているレコードを初版3,000部と注文したら、営業部が300の間違いではないか、と言ったほどジャズのレコードは売れていなかった話も初めて知った。
今はないレコード店のハンターのことも出てくる。

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