1987年春、横浜市港湾局港営課管財第一係長としての最後の仕事は、公共臨港線を廃止する申請を運輸省にすることだった。
公共臨港線とは、1964年に、新興ふ頭まで来ていた国鉄の線路を伸ばして、山下ふ頭への貨物専用線を建設したもので、当時経済成長で賑わっていた山下ふ頭の大量の貨物を鉄道でさばくものだった。
また、当時はほとんどの海外旅行客は、客船で来日し、大さん橋もにぎわっていたので、ここから出る旅行客と荷物を妨げないように、そこは高架で渡り、山下公園の端を進んで山下ふ頭に入るものだった。これについては、市民にアンケートも行って決めたのだった。
いかに貨物があったかは、19666年の鈴木清順の映画『東京流れ者』の冒頭のシーンを見ればわかる。そこでは、渡哲也をリンチするために、川地民夫、郷英治らが、渡哲也を取り囲むのは、山下ふ頭の貨物ヤードなのである。
ここの部分は、モノクロになっていました
だが、1970年代以降、本牧ふ頭の整備、さらにトラック輸送の発展で、山下ふ頭から公共臨港線を使って貨物を輸送していたのは、当時は極冷という会社の「ホップ」の輸送だけで、1日1便に減っていた。
それは、毎週1便、コンテナ船でオーストラリアから輸入してくる「ホップ」を、本牧ふ頭からいったん横持ちして山下の極令の冷凍サイロに保存する。それを毎日、朝9時ごろに、山下ふ頭からキリンビールの生麦工場に運ぶものだった。
そこで、この公共臨港線を廃止することになり、その手続きをやったのだが、その年の5月に港湾局から都市計画局(実際は横浜国際会議場)に異動したので、これが港湾局での最後の仕事になったのだ。
そして、なぜ国に廃止申請をしたかといえば、この線の建設に際し、建設費総額20億円の内、10憶円を国から補助金としてもらっていたからだった。
この補助施設を廃止するとなると、「補助金返還」の問題が出てくるので、廃止申請をしたのだ。
だが、意外にも国は簡単に「補助金返還の要はなし」と回答してきた。
理由は、「20年以上使用され、現状は周囲の状況から不必要になったので、仕方がない」だった。
本当の理由は、この臨港線の元になる新興ふ頭への国鉄線は、桜木町駅海側に大きな踏切があり、人流を妨げていたからだった。
2年後に予定されていた横浜博覧会89、さらにみなとみらい21の開発に、この大きな踏切は邪魔だとのことで、廃止して、踏切もなくしたのである。
今は、鉄道道となっている部分の手前である。