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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『近衛文麿とゾルゲ事件』

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夕方は、朝日カルチャーセンターのオンライン講座で、山田朗先生の『近衛文麿とゾルゲ事件』を見る。

戦前、防諜を担当する機関は、憲兵隊、外事警察と特高警察等があったが、1936年、陸軍は防諜機関を強化するために、陸軍省の組織を改革し、兵務局と兵務課を新設し、憲兵隊を担当させる。

これは、2・26事件を察知していたが、防止できなかったことからだった。

そして、対外用に、陸軍登戸研究所を作り、さらに人材養成機関として、後に陸軍中野学校もできる。

登戸研究所では、電波関係の機器の開発、携帯無線機材の開発を進めた。また、秘密インクの研究・開発も行ったとのこと。

こうした中で、中国でのソ連赤軍のスパイ活動を経て、ゾルゲは、1933年6月に来日し、日本での諜報活動に従事し、中国で親交のあった評論家尾崎秀実と再会し、無線通信技師等も得られて、日本での情報収集活動に従事する。

その主な任務は、日本の対ソ連戦への動向で、ドイツ人でジャーナリストとしての位置と知識を生かして、日本の内閣、陸軍、さらにはドイツ大使館や米国大使館等へも幅広い情報網を作り上げる。

米国大使のジョゼフ・グルーなどにも情報網があったそうで、ゾルゲの最終的な目的は、世界大戦の阻止だったようだ。この辺は、ただのスパイとは異なる独自の思想性を持っていたようで、その点では尾崎秀実と共感するところがあったようだ。

憲兵隊と特高警察は、しばしば縄張争いで、対立することもあったようだが、このゾルゲ事件では協力したようだ。

ただ、ゾルゲの関係者には、陸軍もあり、軍務局長の武藤章少将などもいたのだというのだから、ゾルゲは、知識だけではなく、人間的な魅力もあったのだと思える。

ゾルゲは、ドイツ大使館、陸軍、さらに尾崎を通じて近衛内閣の情報も得ていたのだから、本当にすごいというか、日本の防諜はどうなっていたのかとも言える。

だから、この事件は、発覚して一味が検挙されたときから、対ソ連への情報の遺漏というのではなく、日本共産党の再建工作の一つとして報道された。

それは、ほとんど実体は存在しなかったのに、日本共産党と関係づけられた「横浜事件」「満鉄調査部事件」などと同様で、だから捜査、検挙の糸口は、元共産党幹部の伊藤律との、戦後のGHQのウイロビー本も、その線で書かれていて、尾崎の弟の尾崎秀樹の『生きているユダ』や松本清張の『日本の夜と霧』にも、伊藤律悪人説があったが、今日では完全に否定されている。

現在の論争の一つが、尾崎が逮捕された日にちが、1941年10月14日なのか、10月15日なのかがあり、10月14日に、尾崎が逮捕されたので、近衛文麿が、第三次近衛内閣の組閣を諦めたとの説がある。

山田先生は、尾崎の逮捕云々と関係なく、すでに近衛内閣は行き詰っていたので、その逮捕の日にちの問題は、重要ではないのではとの説である。

この事件で、取り調べを受けた者は、100名以上で、35人が検挙され、17名が諜報機関員とされ、18人は中身を知らずに接触していたとされた。

19人が起訴され、17人有罪、1人無罪、1名未決拘留中獄死となり、ゾルゲと尾崎が死刑にされた。

ゾルゲ機関の「手柄」として、日本の南進を知らせたことが、ソ連のシベリア部隊の西進になって、独ソ戦の勝利に貢献したとされるが、ゾルゲは、1941年8月には北進を報告していたので、必ずしも貢献とは言えないとのこと。

さらに、スターリンは、ゾルゲを「二重スパイ」と思っていて、彼の情報を信用しなかったのも事実のようだ。

ただ、優れたスパイは、必ず二重スパイなので、それは仕方ないことなのだが。

もう一つ、ソ連は、ゾルゲ以外に、スパイを入れていたはずだが、それは現在ではまだ分かっていないとのことだ。いずれ出てくるのだろうかと思う。

 

 


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