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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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やはり岡本坦さんだった

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今回出した『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』で、書けなかったことの一つが、「なぜパシフィコ横浜を株式会社として作ったのか」だった。

これは、当時担当課長だった宇野さんにお聞きしようと思っていたのだが、ご都合がつかずに駄目で、その後に亡くなられてしまった。宇野さんの下にいた戸塚係長とも連絡が取れずに上手く行かなった。

そこで、本の中では、会社の問題は触れずにおいた。

先日、当時のみなとみらいの国際会議場担当にいた白井君に聞くことにした。

彼は、1986年に唯一の横浜市職員で「国際会議場担当」に発令された人なのだ。

ある日、白井さんらのところに、新たに管理職として岡本部長、宇野課長が人事異動で来た。

そして、白井さんたちは、国際会議場の組織体について、報告した。

公設民営など、多くのケースを報告すると、岡本さんは、即座に

「株式会社を作り、自分で建設して運営するんだ」と言ったとのことだ。

理由は、二つあり、当時は経済状況が良く、横浜の企業も新しい事業に参画したいとの機運があったこと。

さらに、公設民営、つまり横浜市が作り、その管理運営を受託する方式(幕張メッセや東京国際フォーラムは、公設民営なのだ)では、いろいろと横浜市から「ご指導される」ので、それは避けたかったのだろうと、私は推測する。

岡本坦さんは、長く財政局にいて予算を担当していたが、係長では経済局に異動されて、中小企業の指導や工場移転も担当されていた。

                                           

そこでの人脈は凄くて、最終的には、多くの企業がパシフィコ横浜の株主になってくれたのだった。

だから、私がパシフィコ横浜に行ったときも、名前も聞いたことのないような「なんとかつま物店」のような個人企業みたいな会社が株主に多数いて大変に驚いたものだ。

そして、この多数の出資者については、開業後は累積損失の存在で、株式の配当ができず、後に総務部長になった私のところにも苦情が寄せられたものだ。

最後は、岡本さんが社長になったとき、資本金を減資するという「魔法」のような手法を使って、一挙に累積損失を解消したのだ。

まったく、岡本坦さんの「力技」というべきものだったと思える。

白井さん、教えてくれてありがとう。

 

 

 


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