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大衆芸能の変遷から見る「国葬」

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「国葬」は、賛否あったが、無事終わったようだ。

近代以降の日本の大衆芸能史から、現在の政治状況と「国葬」を考えてみる。

日本の大衆芸能で一番人気があったのは、浪花節、浪曲である。それは、戦前、戦中、戦後の1950年代まで続いていた。

いかに、浪曲が人気があったかは、俳優の加東大介の戦時中の実話、『南の島に雪が降る』をニューギニアでやるとき、参加者を募集すると、

「私は浪花節ができます・・」ばかりだったでも分かるだろう。

近代以降の日本で、最大の人気の芸能は、浪花節で、ラジオでも1950年代まで『浪曲天狗道場』などがあった。

だが、浪曲は、1960年代に急速に人気を失ってしまう。

その原因は、高度成長により、農村からの大量の若者の都市への移動したことと、戦後の民主主義教育だった。

すべての場面で、「浪花節的」は、古くさい物の象徴にまで、なってしまう。

そこで生まれたのが、演歌だった。

それは、三波春夫、村田英雄の二大歌手が、元は浪花節の世界にいたことでも明かだが、もう一人、三橋美智也も民謡の世界からの転向者だった。つまり、演歌は、浪花節と民謡からの転向だったので、きわめて新しい音楽だったのだ。

もう一つ、北島三郎やこまどり姉妹のように、巷の「流し」から出てきた歌手もいたが、これは江戸時代来の新内等からの流れである。

こうして流行歌は、1960年代末に演歌とニューミュージックに分化する。

そして、20世紀末になって、自民党で小泉純一郎、さらに安部晋三が出てきたのは、やはり自民党の「末期的」症状なのではないかと思う。

戦後、国民政党だった自民党は、中曽根首相の「戦後政治の総決算」以後、より右寄りになって行く。

かつて日本の左翼には「左翼バネ」があると言われたが、自民にあっても、「右翼バネ」が作用してきたというべきだろう。

その根底には、昭和、そして平成の天皇が、戦後の憲法の平和主義と民主主義に賛意を示してきたからであり、戦前的な価値の否定だったからである。

だが、自民党は、小泉純一郎以後は、国民政党では完全になくなり、「右翼ネット政党」になったので、その象徴が統一教会である。

こうした自民の「孤立」を支えてきたのは、言うまでもなく、創価学会・公明党である。

かつて、大久保英太郎横浜市会議長は、1984年春に私に言ったことがある。

「公明党も堕落したな!」

まさにそうだと思うのである。

「国葬」というなら、国民すべてが賛同すべきだが、強い反対があり、岸田首相が、「弔意を強制しない」では、そもそも始まりが矛盾している。

国葬とすべきは、天皇と上皇しかいないはずで、現在の日本国憲法からみれば、法的に問題がある。

その意味で、国民の創意の国葬となれば、戦時中の山本五十六の国葬が最後だろう。

 

                        

さて、現在の大衆芸能で見れば、現在はニューミュージックの時代で、演歌は、カラオケ世代のみだろう。

友人代表の菅義偉の弔辞を見ると、実に浪花節的だなと思うが、彼は、秋田という地方出の人間である。

ここには、浪花節的感情はまだ生きていた。

さて、もう一人、安陪の子分だった井上義幸氏は、どうしたのだろうか。

あの統一教会の井上である。

彼も小田原の出で、貧困から大学へは行けず、国鉄に入り、民営化のとき、総務省に移行し安部晋三と知合い、子分になるのだ。ただ、彼は、みんなの党に行ったりしていて、揺れている。

この菅義偉と井上義幸は、安部晋三の政治的性格を象徴していると私は思うのだ。

 

 

 


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