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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『ドキュメンタリー・沖縄戦』

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1945年3月、アメリカ軍は、沖縄諸島に攻撃してくる。
まずは、大量の空爆、そして猛烈な艦砲射撃、ここでもある女性が証言している。
「すごい飛行機だなと喜ぶと、日本ではなくアメリカ軍だった・・・」
この空爆、艦砲射撃、そして上陸というのは、アメリカ軍が太平洋の島々で実戦してきた結果で、しかも大軍で一挙に攻めるという戦法だった。
よく「アメリカの物量に負けた」という人がいるが、戦争である以上、より有効な策を取るのは当然である。
日本では、野球でも「巨人の巨大戦力」に「野村マジック」、あるいは織田信長の「桶狭間の戦い」のように、術策で勝ことが正しいように言う人が多いが、まったくの誤りである。
戦術や戦法が優れていても、負けたらそれまでで、戦力を充実させるのは当然のことなのだ。

このとき、日本とアメリカの戦力比は、11万人対54万で、まず人的動員数でアメリカが大きく上回っていて、重火器や戦車に至ってはさらに隔絶していた。
そこで、日本軍が取っていたのは、南部の壕(ガマ)に潜んで持久戦に持ち込むというものだった。
これは、同時に陸海軍中央が、沖縄戦は、本土決戦のための「時間かせぎ」という位置づけから来たものでもあった。

沖縄本島中部に上陸した米軍はすぐに飛行場を作り直し、人員と物資を陸揚げすると、南部の日本軍に向かって進軍する。
途中、いくつかの激戦があったが、それは軍同志の闘いだった。
ところが、最南部では、壕には住民も動員されて一緒に潜んでいたので、悲劇が起きる。
ここについては、証言者の口も重くなるが、いくつかのところでは、「集団自決」も起きる。
これの原因についての評価は難しいが、軍がいたところでは集団自決があり、いなかったところでは起きていなかったので、軍の関与は明確だろう。手榴弾は、住民はもともと持っていないのだから、自決は起きようもないのだ。
6月、指令官の牛島中将は自決し、組織的な反抗はなくなるが、このとき「最後まで戦え」との命令を出していたために、兵士たちは秋まで散発的に戦うことになる。
要は、「生きて虜囚の辱めをうけず」の愚策の大きさである。
これは日本軍の持っていた「非人間性」に起因するものだ。
ナレーションは、宝田明と斉藤とも子で、戦争体験者の宝田の言が悲痛である。

シネマジャツク

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