映画監督の森崎東が亡くなられた、92歳。
多くの訃報に出ていないことを書く。
彼は、松竹の監督だったが、大船ではなく、京都撮影所の助監督だった。
松竹は、元は言うまでもなく歌舞伎で、古臭いところもあったが、意外にも非常に新しいところもあり、日本の映画で女優を使ったのは、松竹蒲田が最初なのだ。
日活には、女形がいたのだから信じがたいことだろうが、本当である。
1922年に松竹が映画製作を始めた時、画期的なことの一つが、女優の採用と現代劇を作ることだった。
小津安次郎や五所平之助の諸作も、その上にあった。
だが、これはあまりヒットしなかったようだ。
そこで、主に京都で作られたのが時代劇で、林長二郎(長谷川一夫)の作品が大ヒットし、松竹のドル箱になる。
その後、蒲田撮影所から大船になり、城戸四郎の指導の下に、松竹大船映画は、戦だが前の『愛染かつら』、戦後の『君の名は』など、大ヒットを作る。
もう一つ、重要なことは大船は、メロドラマを作っていたが、監督等は大変に知的だったことで、原研吉という大した作品を監督していない人は、実はフランス詩の大家だったそうだ。かなりに知的に嫌味な撮影所だったと言える。
対して、京都撮影所は、泥臭くて大したことのない作品が多かった。
なにしろスターは、高田浩吉と伴淳三郎だけだったのだから、仕方ないのだが。
新スターとして森美樹というのがいたが、すぐに死んでしまった。
松竹では、打開策として、木下恵介や大庭秀雄などを入れたこともあったが、根本的には刷新できず。
1965年に閉鎖となり、助監督は大船に移籍となり、その一人が森崎だった。貞永方久もそうである。
この移籍組で、一番活躍されたのは酒井欣也で、彼は大女優酒井米子の実子であったことも大きかったが、関西的な泥臭い喜劇が意外にも城戸四郎の好みにあったためだろうか。
森崎は、そうした京都からの移籍組で、大船撮影所では「外様」だったはずで、その中で山田洋次の作品に協力しつつ、頭角を現してきたのは、やはり才能というべきだろう。
彼の中には、今は日本映画大学となった、横浜映画放送学院の連中を使った『黒木太郎の愛と冒険』や『生きているうちが花なのよ、死んだらそれまでよ党宣言』などの異色作もある。
私は、彼の中では『ニワトリはハダシダ』が好きである。
これは、「人間は裸だ」という意味だと思っている。
日本映画界で、異色の歩みをつづられた監督のご冥福をお祈りする。
多くの訃報に出ていないことを書く。
彼は、松竹の監督だったが、大船ではなく、京都撮影所の助監督だった。
松竹は、元は言うまでもなく歌舞伎で、古臭いところもあったが、意外にも非常に新しいところもあり、日本の映画で女優を使ったのは、松竹蒲田が最初なのだ。
日活には、女形がいたのだから信じがたいことだろうが、本当である。
1922年に松竹が映画製作を始めた時、画期的なことの一つが、女優の採用と現代劇を作ることだった。
小津安次郎や五所平之助の諸作も、その上にあった。
だが、これはあまりヒットしなかったようだ。
そこで、主に京都で作られたのが時代劇で、林長二郎(長谷川一夫)の作品が大ヒットし、松竹のドル箱になる。
その後、蒲田撮影所から大船になり、城戸四郎の指導の下に、松竹大船映画は、戦だが前の『愛染かつら』、戦後の『君の名は』など、大ヒットを作る。
もう一つ、重要なことは大船は、メロドラマを作っていたが、監督等は大変に知的だったことで、原研吉という大した作品を監督していない人は、実はフランス詩の大家だったそうだ。かなりに知的に嫌味な撮影所だったと言える。
対して、京都撮影所は、泥臭くて大したことのない作品が多かった。
なにしろスターは、高田浩吉と伴淳三郎だけだったのだから、仕方ないのだが。
新スターとして森美樹というのがいたが、すぐに死んでしまった。
松竹では、打開策として、木下恵介や大庭秀雄などを入れたこともあったが、根本的には刷新できず。
1965年に閉鎖となり、助監督は大船に移籍となり、その一人が森崎だった。貞永方久もそうである。
この移籍組で、一番活躍されたのは酒井欣也で、彼は大女優酒井米子の実子であったことも大きかったが、関西的な泥臭い喜劇が意外にも城戸四郎の好みにあったためだろうか。
森崎は、そうした京都からの移籍組で、大船撮影所では「外様」だったはずで、その中で山田洋次の作品に協力しつつ、頭角を現してきたのは、やはり才能というべきだろう。
彼の中には、今は日本映画大学となった、横浜映画放送学院の連中を使った『黒木太郎の愛と冒険』や『生きているうちが花なのよ、死んだらそれまでよ党宣言』などの異色作もある。
私は、彼の中では『ニワトリはハダシダ』が好きである。
これは、「人間は裸だ」という意味だと思っている。
日本映画界で、異色の歩みをつづられた監督のご冥福をお祈りする。