佐藤栄作といえば、佐藤B作という、彼の名を揶揄した役者がいるほど、左右両陣営から評判の悪い首相だった。
特に、ノーベル平和賞を受賞したのも、やりすぎだと思われたものだ。
だが、私は、彼の側近の日記を読んだあたりから、「この人は意外にも違うのではないか」と思うようになった。
岸・佐藤兄弟と一括りにされるが、この兄弟はかなり違う。第一に、佐藤は兄岸信介のような秀才ではない。
彼も東大法学部を出たが、国ではなく鉄道院、それも中央よりも地方勤務が多かったように、ここでも中枢ではない。
中で重要なのは、1945年3月の大阪空襲の時、大阪にいて火災現場で指揮を執ったことである。
彼が、「人事の佐藤」と呼ばれるほど、人事管理、情報に通じていたことは有名で、国会にいてもいつも「国会便覧」を読んでいたそうだ。
対照的なのが宮沢喜一首相で、政策には通じていたが、議員の動きが分からない人間だった。1993年の宮沢内閣不信任案の時も、小沢一郎らの動きは全く知らず、採決まで知らず、結果に驚いたのだそうだ。
さて、佐藤栄作は内政は得意だったが、外交が下手で典型例が日中国交回復で、結局彼はできず、次の田中角栄が電撃的に中国を訪問して国交回復し、田中の大手柄とされた。
だが、先日のBSNHKの『日中「密使外交」の全貌』は非常に面白く、実は佐藤栄作も中国との国交回復の秘密交渉をさせていたことが明らかにされた。
江口真彦(口は、難しい字)という人で、戦前は外務省にいて特務工作をやっていた人で、彼は1971年秋から佐藤からの依頼によって中国政府の中枢部、具体的には周恩来へ3通の秘密書簡を送るのを工作したのだ。
戦時中の中国との人脈から、当時は香港にいた彼らの様々なルートから北京への秘密交渉を行っていたのだ。
中国側の窓口は廖承志で、当時は対日窓口の責任者で、そこから周恩来に伝えたのだ。
なぜ、そのようなことをしたかと言えば、1971年10月に国連から台湾が追放され、中華人民共和国が国連の代表権を得たからである。
もちろん、日本は公式的には台湾側にいたが、この時の佐藤の反応を見ると、結果として中國側が代表権を得たのだから、仕方がなく、中国と交渉しようとするものだったようだ。
この辺は、実に現実的で、佐藤栄作は、イデオロギストというよりは現実家だったわけだ。
私が、佐藤栄作がすごいと思ったのは、役所で配布された人権関連の本の中に、ある部落関係の幹部の叙勲について、佐藤栄作が大変に運動してくれたという記事で、この人はすごい人脈なのだなと思った。
そのように、国の高級官僚の人事掌握術は、こうした「面倒見」のようだった。私が唯一関係した元大蔵次官の高木文雄さんも、細かく部下の人事を面倒見ていたようで、時にはそこまでしなくてはと思ったものだ。
その結果、高木文雄さんには、日本全国あらゆるところに知り合いがいるのには、本当に驚いたが、佐藤栄作はもっとすごかったのだろうと思う。
もちろん、日中国交回復については、このルートの他、田中角栄と公明党の竹入義勝委員長、さらに日本社会党や日中友好協会など様々なルートがあり、最終的には佐藤内閣の後任が田中角栄になり実際に訪中して国交回復したので、竹入ルートだけが存在したように言われるようになった。
佐藤栄作については、岸信介とは異なる政策を進めた自民党の首相として、私は再評価しなければならないと以前から思ってきたが、それが裏付けられた番組だった。