現在では、世界的に見ても、1930年代に日本の映画が高いレベルにあったことは常識になっている。
伊藤大輔をはじめ、内田吐夢、衣笠貞之助、五所平之助、小津安二郎、山中貞雄ら、無声映画時代の時代劇(と書くのはサイレント時代には時代劇は旧劇と呼ばれていて時代劇の名称はなく、本当はおかしいのだが)、現代劇のレベルは世界的であったことは、当時の映画が容易に見らるようになった今日では問題のないところである。当時は、海外に日本映画が紹介されることが、衣笠の『狂った1頁』を除けばほとんどなかったが、今では小津安二郎が世界で評価されているように日本映画のレベルは本当は高かったのである。
では、なぜ日本の映画は、そのようにレベルが高かったのだろうか。
私は、先日見た幻燈などの語り芸(それは浪花節、落語、説教節、絵解き、講談などから来たものだったが)の伝統があったのではないかと思う。
さらに、俳句にみられる短詩系文学の伝統も重要だったと思う。
伊藤大輔、伊丹万作は、四国の松山で俳句、短歌の伝統の中に育ってきた。確か、伊藤大輔の言葉であったと思うが、映画は俳句に似ているという説もある。俳句の文節の展開は映画のショットの転換に似ているといえる。
さらに、伊藤か内田吐夢だったと思うが、映画のシーンの展開も、落語や講談の場面の転換が非常に参考になると言っていたはずだ。
いずれにしても、今日のアニメーションの世界的興隆は、遠くたどれば映画になり、さらに日本の語り芸の厚さの伝統からきているのではないかと私は思う。
いずれ、映画と俳句、さらに伝統的な語り芸との関係は、今後の重要な課題として追及していくつもりである。