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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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大滝詠一、死去

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大滝詠一が死んだのには驚いた。

2年前の中村とうようさんの死以来の衝撃である。

当初はリンゴが詰まってとのことだったが、そうではなくて解離性動脈瘤とのことで、石原裕次郎らが倒れたのと同様の病気だと思う。

実は私も脳の動脈解離による脳梗塞で12年前に倒れ、一時は左半身完全マヒになり、今も左足首から先は自力では動かないが、日常生活にはまったく不自由しない状態までに回復した。

倒れてすぐに心肺停止状態だったということは、体の内部の心臓に近いところの動脈の解離が起きて、すぐに血管が詰まってしまったのだろうと思う。

即死状態だったということは、動脈瘤が破裂したのかもしれない。知合いの医者に聞いたところでは、破裂ではどうにもならず、寿命だと思うしかないそうだ。

だが、大滝詠一は特に酒、タバコをひどくやっていたとも聞かず、痩身で高血圧とも思えなかったので、遺伝性のものとでも言うしかないが、それが天命なのだろう。

 

さて、彼の音楽を私が知ったのは、1970年代の中頃で、自作の芝居の音楽の担当スタッフが大滝詠一の大ファンで彼のレコードを使用していて、

私は「これは何だ」と思った。

すぐに当時出ていたLPは全部買ったと思う。

また、彼はラジオ関東の深夜放送で「ゴーゴー・ナイアガラ」を担当しており、それも愛聴していたが、コンサートはやっておらず、実際に見たのはかなり後だった。

                           

コンサートに行ったのは、1977年の渋谷公会堂での「ファースト・ナイアガラ・ツアー」で、ここでシリア・ポールがナイアガラ・レーベルの最初の女性歌手としてデビューし『夢で逢えたら』が歌われた。

1978年には「ナイアガラ・コンサート78」が中野サンプラザであり、この時のゲストは山下達郎。

キーボードの井上鑑が、やまがたすみこと婚約してマスコに追いかけられているとのことで、鈴木慶一に代わった。

だが、この時期の大滝はスランプだったらしく、作曲は大変だったようだ。

翌1988年の12月に「やっと新しいアルバムができましたので」とのことで、郵貯ホールで「レッツ・デビュー・アゲイン大滝詠一」をやったが、郵貯ホールがやっとの一杯の動員だった。

このLPが、「ア・ロング・バケーション」で、これは大ヒットになり、翌年6月には「ア・ロングバケーション」として新宿厚生年金会館ホールが満員だった。

それ以後の、彼の復活、大活躍については私が言うまでもないだろう。

ほぼ同世代であり、その知識、見方には常に尊敬を持っていた方の一人として、心からのご冥福をお祈りしたい。

 


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