中田新一は、畑山博の小説『海に降る雪』で監督デビューした人で、長い間主として独立プロで助監督をしてきた。
彼がその名を轟かしたのは、作品によってではなく、映画『パンダ物語』の撮影の時、主人公で当時アイドルだった八木さおりに暴行したという、日本映画史に残るスキャンダルだった。
この本のなかでも触れられているが、勿論暴行などはなく、濡れ衣なのだが、その裏には、八木さおりが映画作りにまったく無知で、何度か撮り直しをした。すするとバカな八木さおりがプロダクションに文句を言い、それを製作会社田中プロの田中寿一プロデューサーが、当時すでに中国には容易にはパンダが存在せず、撮影が進行せず、中田監督を交代させたいために言いふらした嘘だったのだ。
だから、中田の後、新城卓が監督になって映画はできたが、散々なできで、大ズッコケに終わった。
この時、中田新一は、慰謝料と言うか和解金として、田中プロから2,000万円を貰ったそうだ。
この悪辣で知られた田中寿一も、その後失敗が続き、田中プロは倒産、烏丸セツ子とは離婚、そして死んでしまったそうだが、三船敏郎を裏切った罰とでもうべきだろうか。
中田新一は、早稲田の文学部在学中からフジテレビで『若者たち』や『奥さまニュース』のADをしていて、『若者たち』を演出していた森川時久がフジを辞めて映画を作るようになった時、独立プロの新星映画社に入り、助監督を目指して、製作進行、ほとんどが車の運転手等の雑用係で映画界生活を始める。
大手映画会社が新人を取らなくなった1960年代から、映画界に入るには、そうした方法しかなかったのである。
その後、東宝系の芸苑社で佐藤一郎の下で企画と助監督を経験し、今井正、熊井啓、そして森谷司郎の『八甲田山』に付く。
映画製作の裏側が分かって大変興味深いが、中でも『妻と女の間』の時の豊田四郎の姿が面白い。
中田は、芸苑社の使いの者として、ただ脚本を届けに来ただったのだが、豊田は中田に向かって脚本のことを根ほり葉ほり聞き、中田は非常に参り、「その鋭さはまるで剣客のようだった」と言っているが、さもありなん。
『ドン松五郎』が大成功し、違う人間が撮った続編が失敗した件も面白い。
全体として、細部に誤解もあるが、彼の正直で嘘のない性格は良くわかった。
誤解の最たるものは、1948年の東宝争議のことをレッドパージと混同していることである。
東宝争議は、ここでも何度か書いたが、共産党員が東宝にいたから起きたわけではなく、戦時中に航空教育資料製作所という陸海軍用の「軍事マニュアル映画」を多数作っていた東宝が、戦後は注文主を失ったから起きたものである。
共産党員云々なら、それは他社の松竹、大映にも多数存在していたわけで、その証拠に1950年のマッカーサーの命令による映画各社でのレッドパージでは、松竹や大映からも多数の共産党員が追放されている。
この辺のことは、私が『黒澤明の十字架』で始めて記述してことなので、映画界の人間が知らないのも仕方ないのだが。
中田の監督デビュー作『海に降る雪』は、暗いメロドラマ風の作品なのになぜか東宝系で公開され、大げさに荘重な予告編を何度も見させられたが、なぜ公開されたのか、その理由も分かった。